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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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「あき、新しい店になったら、帰ってこれないから。」

飲んで朝帰りの純一さんが、一眠りして起き抜けに言った言葉。

「いやだ。」

「いやだじゃない。前から言ってただろう。」

わたしが聞いていたのは、かつては店に泊まり込んで、
ずっと帰ってこなかったことがあったこと。
そして、今度再開するときは、違うやり方にしたい、ということ。
つまり、家族を一番にしたい、ということ。
家族との時間を、大切にしたい、ということ。
柔らかい笑顔で、そんな話をしてくれたことがあった。

「もう限界かもしれない。」

朝帰りの純一さんが、寝る前に言った言葉。

「癌かもしれない。背中の痛みが尋常じゃない。一度診てもらうべ。」

「病院行ってね。」

「行けるわけないっちゃ。食わせる人いっぱい抱えてるんだ。
自分の都合で店閉めるわけにはいかないだろ。」

「純一さんの身体が大事だから。」

「大丈夫、あんたらには迷惑かけないから。
保険がっつり入ってるからな。」

「わたし、受取人じゃないもん。」

家族として、恋人として、大好きな純一さんに言っているのに。

「わたしのことも大切にしてよ。」

「フザケロヨ。オイの生き様どうせ理解してねぇんだろ。
 アンタとオイの生き方は違うんだ。」 

じゃあ、さっさと死ねば。

「ああ、死んでやる。」


純一さんは疲れている。
体中限界のところで、やっている。
そんなこと、わかってる。
思いやりが伝わらないところまで、そんなギリギリのところまで。

帰ろうか。
何のためにここにいるのか。
家族になるため、じゃなかったのか。
一緒にご飯を食べられないどころか、
ご飯を作ってあげることも拒否され、
さらに帰ってこなくなったら。
それって家族、なんだろうか?
わたしを大切にしてくれない人といても、しょうがない。

涙が出てきた。
日菜穂を腕に抱き、歩いて揺らしながら、気付いたら泣いていた。

「あき。ごめんな。日菜穂を一人で見させて。」
(ここで涙に気付かれる)
「泣くな。家を頼むど。」

家、って何?

「日菜穂を見るのは問題じゃない。
 わたしのことも、大切にして。」

「泣くな。あんたは応援してくれてただろ。」

帰ってこれなくても、わたしのご飯を食べることができなくても、
それでも、純一さんにとっては、帰りたい家で、わたしは妻で、わたしたちは家族なんだろうか?
わたしの存在を、支えに思っているのだろうか?

タバコを吸って一服して、怒られると思ったら、日菜穂を抱いているわたしを抱きよせた。
「あき、泣くな。」

応援、してるよ。
わたしたちは家族で、わたしは妻だ。
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「堂々とこの家の主婦でいなさい」

もう妊婦でもなく産褥期もとっくに終わって、もうすぐ日菜穂は3か月。
それなのに、赤ちゃんに合わせて抱っこしたりゴロゴロしたり眠ったりする毎日。
ずっとダラダラ、ずっとグダグダ。
実は、何もすることがないのを、赤ちゃんに便乗して目を逸らしていた。

わたしは3人目の嫁としてこの家に入った。
入籍も引っ越しもなかなかしてもらえなかった。
前の女たちが全然気にならないか、って言ったら嘘になるけど、
それより、ここは彼の家だ、というのが抜けなかった。
あんたの自由にしていいよ、と言われてもできなかった。
遠慮、というのもあるし、来る前からの分の掃除は私の役目ではないと思っていた。
家政婦扱いされている気分に陥ることもあった。

でも、これから日菜穂がどんどん大きくなって、
日菜穂のごはん作るのも、日菜穂が目にするキッチンも、ここである。
日菜穂にとっては「お母さんがいるキッチン」なのだ。
日菜穂には、この家の過去は関係ない。

わたしが、やらなきゃいけない。だってもう、ここはわたしの場所だから。


「そのほうがご主人も落ち着くと思うのよ」

なかなかしてもらえなかった引っ越しだけど、引っ越しのその日に鍵を作ってくれた。
わたし用の箪笥を、まず買ってくれた。
家具や模様替えの話の中で、わたしには決められない、だってここはあなたの家だから、と言ったら、
今更何言ってるんだと吐き捨てられた。

そんなことを思い出す。


とにかく赤ちゃんと一緒に眠ってばかりいた毎日から、
自分に対する認識が、劇的に変わった。

わたしもこの家の主役だ。
日菜穂とわたしが心地よく毎日を過ごせる家、でなきゃいけない。

まずはテーブルをよけて、日菜穂が遊べるスペースを、部屋のど真ん中に作ることにした。
そして3日かけてキッチンを片付けた。
自分がやるべきことをやっていると、卑屈にならないでいられるようだ。
家政婦なんかじゃなくて、この家を回していくのだ。
部屋をきれいにして、日菜穂の場所を確保したら、
そうしたら日菜穂のもの編んでみたり、
お料理を作る生活に戻したり、
赤ちゃんサークルみたいなのに行ってみたり、
新しい生活を始めよう。

心が行き先を失っていたが、仲間である主婦の大先輩の言葉に、
こっちだよ、と手を引いてもらって、とりあえずスタート地点まで連れてきてもらった。
今日はホーマックに行って、窓掃除道具をそろえてきたから、
明日は晴れたら窓掃除。




家族、って、「幸せ」の単位も、「協力」の単位も、
わたしの中では夫婦、だと思っていました。

それはそうなんだけど、考えが変わってきました・・・。

わたしの思い描いていた幸せは、わたしと彼がいて、そこに赤ちゃんがいて。
というものでした。
わたしの思い描いていた協力は、わたしが9割でもいいけど、わたしと彼が共同で家事と子育てをする、どうしても無理な場合は親にお願いも已むを得ない、というものでした。
でも、夫婦でできることは限られていて、「幸せ」や「協力」をパートナーだけに求めるのは、わたしたちの場合はちょっと違うのかもしれない。

孫を見て「長生きしてよかった」と言う父と母。
孫を見て「これから頑張って長生きしよう!」という義母。
義父と義母が、忙しすぎる彼の分まで、嫁のわたしをとても大事にしてくれています。
確執のあった母が、お願いしたら(来たいから、じゃなくてあくまでお願いしたときに)喜んで来てくれます。
母と義母に物理的にも精神的にも助けられています。
子育てって、上の世代の女性が下の世代の女性を支えながら繋げていく、という部分があるのだと身をもって知り、(当たり前だからか)世の中ではわざわざは言われていないことだけど、今それがとても輝いて感じています。
そしてまた、義両親が自分の息子を少しでも支えようと、息子とその嫁にまで常に手を差し伸べる準備をしてくれているのが目に見えます。

そんな親世代も含めての「家族」というものが、
一人で生きていけるようになろうともがいていたわたしに、
新しい価値観を教えてくれています。
おっきな意味での「家族」が感じられるようになってきて、
「自分だけの幸せ」から「みんなの幸せ」を願うように変わりつつあります。
いかに今まで、「自分だけ」しか考えてこなかったか・・・。

義両親も両親も、みんなで協力して生きていくやり方が、ここにあります。
若世代のわたしたち夫婦は、親世代に助けてもらいながら、
親たちにも幸せを感じてもらえるようにやっていきたい。
「自信を持って堂々と、この家の若世代の主婦でいなさい」
子育て卒業世代の友人が言ってくれた言葉が、ストンと肚に落ち、
そしてズシンと響いた今日でした。
女は命を産み、育て、継承していく性です。
それは女だけに与えられた素晴らしい使命です。
だから男は命をかけてまで女を守る。

---ゴロゴロ、パクパク、ビクビクしていて、お産は自分でできないから全部医者にまかせて赤ちゃんをとりあげてもらう。そんな女が男に命を懸けてもらえるのにふさわしい女ななのか---

女という存在は、それぐらい誇り高く気高いものです。


産むことが喜びであり、育てることが喜びであり、
「女」として生きることが天に通じた喜びだと感じる。
そう感じることができる女は、実に女らしい「女」になります。

男は男らしく、女は女らしく。
そうすると「生まれること」も「生きること」も「死ぬこと」も
すべて喜びに満ちたものになります。

女が徹底的に、誠心誠意、女として生き、
完全に安産できるような体と心をつくって自然なお産をすること。
自然なお産をすれば、本能的に子どもを可愛がる。
自然の絆さえできていれば
おのずからどうやって育てればいいかわかってくる。







結婚生活とは。

家では彼が居心地いいようにと願い、
外では、彼を理解して彼に寄り添い支える女性でありたい。
それが彼の望みでもあり、
わたしの望みでもあった。

こういうものだと思うからやってみているけれど、
どんどん自分からかけ離れていく。

一度しかない人生、と気付いた2008年。
せっかく与えてもらった命だから、
めいっぱい楽しもう、と決めた。
そこからいろいろやってきて、
いろいろ学んで、
そしてそんな流れの一部でここに来た。

一度しかない人生、これでいいのか。
自分を喪っていく日々・・・。
それでも。
これも成長?

妊娠、という経験をし、
既婚歴ができ、
家庭が欲しい、という夢のために、
今、やれることをやっている。
欲しかったものを手にいれた。
それが、今。
想像と違うけど、
せっかく手にしたのだから、作り上げていきたい。

・・・のか?

手に入れたから、もういいのか?
実際、これでいいのか、いつまでも、自問、自答している。。。
ヨークでオンザロの悦ちゃんに会った。
悦ちゃんはわたしの10週先輩の妊婦さん。
逆子ちゃんで、4日に帝王切開が決まったそうで。

悦ちゃんに会えて嬉しかった。
おなかの子どもが、同級生と会って喜んでる感じがした。
引き付け合ったんだな~っていう気がした。


その悦ちゃんからのメッセージ。

ー 今の幸せを赤ちゃんとパパと楽しんで下さい♡

  実りあるものばかりで、素晴らしい時間ですよね♡ ー


何を言われても、笑顔でいよう☆
大丈夫。
HAPPYなんだ。
今は、ぜったい、HAPPYなんだ~♡
悦子さんからいただきました。






素敵~☆
サッカー少年のための教育で、「判断力をつけるための自分で考えるトレーニング」について書かれている文章を目にした。
絵画「落穂ひろい」を見て、絵の「感想」ではなく、観察し、分析し、その絵に描かれた事実に基づいて説明する。

昨日、「あきは何がしたいの?どうなりたいの?妄想でもいいから」と言われ、何も考えていない自分に気付く。
いや、論理的に言おうと思えば、言えたかもしれない。
どうなりたい、何がしたい、そういう自分は保留であり、今は他に目を瞑って、一緒にやっていくこと、できるだけストレスフリーで穏やかにいること、そんな今の積み重ねを優先しなければいけない、と考えているということを。
説明しようとして頭を使い、言葉にできないまま頭が疲労して眠りに向かってしまった自分・・・。
しばらく論理を捨て、苦手であった感情と直観で生きることをやってきた。
もしかしたら、もう一度、説明する力を身につけるべきときかもしれない。

と、この先生の著書はないかとネットサーフィンしていくと、「サッカーのためのロジカル・コミュニケーションスキルアップブック」という中古で76,817円もする本に出会った。☆5つ評価のレビューに、衝撃を受けた。恥ずかしいくらい、「自分」しか考えてこなかったわたしが、一緒にやっていきたい人と衝突するその理由が突き付けられた。
(抜粋)
一人一人が、頭を使って考えて、自分のため、チームのため、サッカーのために、
何をするとよいかを考えられるようになることが、面白いサッカーになることだということに、いつ気がつくか。

ここには二重の示唆がある。
頭を使って考える内容は、「自分」だけではなく、「チームのため」「サッカーのため」である。
「チームのため」「サッカーのため」に何をするとよいか、が考えるべき内容である。
そして、そのレベルの発想で考えるようになることが、「面白いサッカーになること」とイコールだ、ということである。
夫婦になる、家族になる。
「二人のため」「家族のため」に何をするとよいかを考えると、人生より面白くなるのだ。
そしてそれを超えて、「二人に関わるほかの人のため」や「二人がいるコミュニティのため」に何をするとよいかを考えられれば、人生は面白くなるわけだ。

一緒にやっていきたい人は、こういう考えをする人だ。
わたしはその素晴らしさに気付き、彼のように大きな懐の深い人間になりたいと願っていたはず。

気付けば、変われる。


遠藤さんから、「あきちゃん、母子手帳のカバー持ってる?」と連絡をもらった。

何それ?っていう反応のわたし。

「ずっと使うものだし、初めての子どもの場合は、かわいいカバーしたりするのよ。」

って。

赤ちゃんを楽しみにする、っていう心境から、ちょっと違うところにわたしはいるなぁ、と感じた一コマ。

遠藤さんありがとう。



DIAMOND ONLINEで渡部幹という方の文章にはっとさせられたので、ここに覚え書いておく。

著者は言う。バブル崩壊以前(正確には崩壊後数年まで)の日本社会では、人間関係は「黙っていても巻き込まれるもの」だった。生まれたときから、様々な人間関係がすでに用意されていて、その関係の中でうまくやっていかなくてはならないプレッシャーに晒される。親戚関係で、学校の友人関係で、就職後の会社組織で、人間関係のしがらみを気にしながら生きていかなくてはならない人生を送る人が多かった。

ところが、現在はどうだろう。「しがらみからの離脱」が、かつてよりも簡単になっているのだ。会社も簡単に辞められるし、引っ越しコストも相当低くなった。ネット上では嫌になったらIDを消せばいい。「しがらみからの離脱」は日本人にとって大変なことでも、かっこいいことでも、うらやましいことでもなくなっているのだと言う。

「今日本人が求めているのは、どのようにコミットメントするか――つまり、どのように自ら望んで関係を構築するか――であるはずだ。しかし、その答えが見つからず、皆四苦八苦しているのが現状だ」

著者は村上春樹の新刊をもって、「『孤独を好む主人公に周りからアプローチしてきてコミットメントする世界』は、前世紀の遺物」と評価、そして今求められているのは、「この時代に、いかにして自ら能動的にコミットメントを形成するか、その行動」であると説く。


・・・・・
自分がまさにこうであったと思う。しがらみからの離脱。そればかり気を取られ、できるようになったことを誇っているガキだった。そうではない。今大切なのは、しがらみから離脱した自立した個人であるわたしが、社会にの同的にコミットしていくこと、そしてそのための過程をしっかりと考え努力していくことなのだ。別な記事の言葉を借りると、「しがらみから逃げるだけの孤立主義」から「関係を開拓できる個人主義」へと価値観を変えなえればいけない。


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