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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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わたしの最初の仙台の記憶は、1984年11月11日。その日は土曜か日曜で、小学校2年生のわたしの学芸会の日だった。学芸会を見に来た母と祖母と一緒に、叔母の家へ遊びに行った。叔母の家の電話が、そのとき鳴った。「おきにいちゃんが死んだって。」母と叔母の兄、祖母の長男である仙台の叔父が亡くなったという、一本の電話だった。

いったん家へ帰ったのか、どうやって仙台へ行ったのかは覚えていない。次の記憶は仙台の叔父のマンションだ。マンションの11階の叔父の家で、叔父の奥さんは大声で泣いていた。昨日は叔母の家で遊んだ叔母と、叔父の眠る横で再会した。「叔父ちゃん死んじゃったね。年齢順で行くと、次は叔母ちゃんかな。嫌だね。」とこっそり言った叔母に、「まだ大郎叔父ちゃんがいるよ。」とわたしは答えた。大郎おじちゃんも好きだったけれど、毎日うちへ来てくれる珠子おばちゃんはもっと好きだった。わたしはお通夜の道案内用の、「千葉家」と書かれた矢印の紙を貼りに伯父と一緒に外へ出た。11階という長い階段を歩いて降り、歩いて登ってはしゃいだ。小学校2年生のわたしには、身内の死は初めてだった。死んだらどうなるのだろう、という問いは、もっと小さいときから思ったことがあった。それが具体的な不思議になった。死んじゃうって、どうなることなんだろう。今考えているみたいなことも考えることができないのかな。焼かれちゃって埋められちゃってから間違いだったら、どうなるんだろう。夜は、そんなことを考えて、なかなか寝付けなかった。
 
 一昨年2008年5月、叔父が亡くなり、一つ年下の叔母は昨年2009年9月4日に亡くなった。叔母と叔母の死について秘密の会話をしてから25年。25年死なずに生きてきたけれど、わたしが大人になってからは、自分の不甲斐なさから、親戚付き合いを絶っていた。たった2回行くことのできたお見舞いは、もう遅すぎた。小学校2年生だったわたしは32歳になり、叔母は74歳だった。叔母の葬式で、初めて上の従兄姉が仙台に馴染み深いことを知った。祖母がまだ仙台にいた頃は、従兄姉たちの夏休みは、毎年仙台だったのだ。叔父も叔母も母も祖母も従兄姉たちも、みんな仙台にいたのだ。

明治39年(1906年)11月6日、壁梧桐は12年前の仙台を思い出している。壁梧桐も、仙台にいたのだ。虚子と一緒に、人生を悩みながら。
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思い立って、三春へ行った。

「三春の滝桜」この桜の存在を知ったのは、その前の年の花見のときだった。「東京の花見は花の下で宴会なんだね。田舎ではね、一本の大きな桜を見に行くのが花見なんだ。」この一本の大きな桜、というのが彼にとっては「三春の滝桜」であり、この知識は、「田舎では」という括りではなく、滝桜に限定された知識だと、今は思う。ともかく、わたしの頭に「三春の滝桜」という桜が、刷り込まれた。

国の天然記念物となっている「三春の滝桜」は、噂にたがわず、その存在感は圧倒的だった。樹齢1000年を越え、幹周り9.5M、老木であるから、たくさんの添え木に支えられている。火曜日に開花し、昨日の金曜がもう満開だった、と人々が話している。因みに、今年の東京の桜は、開花から3回も週末を迎えたのだった。その最後の週末からちょうど2週間後のこの日、週末だから、満開の滝桜を目指して、たくさんの人がきていた。人々は一本の滝桜の前でとても小さく、滝桜に見守られているようであった。そしてそれであるのに、添え木に支えられている滝桜も、たくさんの人々の優しい視線に見守られているのだった。

三春町にある桜は、滝桜だけでなかった。山の上の滝桜から歩いていると、車道の坂道が桜のアーチである。目の前の桜のアーチの中へ、車が、バイクが、心地よい風を伴って入っていく。町までの間に、大きなしだれ桜も、寺ごとにある。椿と共生しているような、椿を幹が囲んで守っているような、不思議な桜もあった。三春は、花の溢れた、春のまん真ん中にあった。その春の真ん中の三春町に、わたしはいた。春愁を抱えての旅が、ふっと軽くなった。「三春の滝桜」を教えてくれた人に、花の報告をしたくて、テレカを買った。

碧梧桐は、三春に、秋に行っている。明治39年(1906年)10月9日。この地で句会を行っている。兼題は「柿」。

渋柿を食うて羅漢の何番目  水声
柿主を脅やかしたる土賊かな 碧梧桐

滝桜が国の天然記念物に指定されるのは、碧梧桐が三春へ行った16年後、大正11年(1922年)である。
今日は、夢、の話をします。眠っているときの夢。

みなさん、夢って、ストーリーありますよね。
混乱した、わけのわからない、だからこそ面白いストーリー。
わたしが中国語しゃべれないのに、中国で家を買う、という夢を見てくれた人もいます。
会社の子で、わたしに家計簿を怒られた、という子もいます。(経理やってますから^^v)

わたしの実感だと、たぶん、眠っている間に、起きているときの莫大な情報を、脳が整理するんです。
その過程で意識がふと目覚めるときが、「夢を見た」というときで、
脳が情報を一生懸命整理しているから、いろんな情報が混乱して、
奇想天外なストーリーができあがる。
昼間の情報量が多いほど、情報と情報が変なふうにつながって、面白いものができる。
ほんと夢、って面白い。でもそれって、自分の発想力です!

ところが、ここしばらく、わたしの夢は、動かなかったのです。
白黒の静止画。
ストーリーの展開能力がない。脳が情報整理をストップした状態。
わたしは夢を見ているんだ、と認識しているのです。
それで、ストーリーを作らなきゃ、と思うのです。で、止まってしまう。
夢だ、という認識がどこかにあるので、怖いですよ、これは。


3週間会社を休みます。今日は会社に行かなくていいのが嬉しくて、12時間の眠りでやっと夢にストーリーができました。会社に行ったら、8F(前の事務所と少し混乱している。今は14F)でエレベーターを降りたら工事中。うちの会社は、また引っ越しをした、と言われます。それも1Fに。聞いてないよ、という状況も充分ありうるうちの会社。でも、1Fのオフィスは快適で、ここなら仕事続けてもいいなぁ、と思ったのでした。
鬼怒川への言及は、「鬼怒川の沿岸氏家氏の城趾勝山から船を下して宝積寺に遊んだ」のみである。明治39年(1906年)10月1日のことである。

1995年の鬼怒川は、寂びれた温泉街、という趣だった。大きなホテルが何件もある。そのうちの1件の別館に、毎年全国のダンス部学生が集まる。大学の枠を超えて友情を深めましょう。そういった主旨の合宿で、昼夜遊ぶ。メインは1年生である。夏休みなので、1年生は大学生になったばかりだ。だから、春の「御宿」での合宿より、1年生はまだまだ純粋であり、そして人数も桁違いに多い。

鬼怒川での遊びとは。

昼の鬼怒川遊びの一番は、なんと「秘宝館」だったりする。鬼怒川には「秘宝館」がある。ここへ、上級生が1年生を連れて行く。大人用性講座、いや、大人養成講座。
部屋ではいろいろな遊びがある。とても楽しいのは男の子を女装させるものだ。かわいい男子に女子のワンピースを着せ、女子が可愛く化粧をしてあげる。彼らは女の子の格好をしたまま夕食の大宴会場へ行くことになり、男らしく浴衣のはだけた偉そうな先輩たちのお茶汲命じられたりする。
そして夜の遊びは「肝試し」。ホテル内で行われる。ホテルには、エレベータの止まらない最上階と地下1階がある。使われていない最上階。そこは呪われたお化け屋敷である。そして地下1階。ここは、かつての大浴場である。洪水で死者も出た場所であり、その後使われなくなった、という。実話であるこの話を含め、さんざん怪談話をしたあと、怖いもの見たさの1年生が上級生に連れて行ってくれとせがむ。まず最上階へ、そして地下へ。立ち入り禁止のロープを越えると、洗面器などもそのままの大浴場である。従業員につかまるとものすごく怒られる、という意味での肝試しでもある。さすがに一人で行かせたりはしない。
こうして大学1年生は鍛えられていく。

鬼怒川は、本当はとてもきれいな渓流である。1997年、私にとって3回目の合宿でのことである。3回目でありながら実は行ったことのない秘宝館へ行く選択肢もあったけれど、わいわい騒ぐのは下級生にまかせて、3年生のお姉さまである私たちは、のんびり渓流散歩を選ぶ。五平餅を食べながら歩く渓流。オトナ気分に浸る。ホテルに戻って、大浴場で温泉を堪能する。そう、鬼怒川は、本当はとても素晴らしいところなのだ。
華厳の滝を碧梧桐が訪れたのは、一高生藤村操が華厳滝で投身自殺した3年後の年、明治39年(1906年)9月24日である。藤村操は「巌頭之感」という遺書を残し、華厳の滝に身を投げた。哲学的なことを考えて厭世的になり、「終に死を決するに至る」となってしまったわけだ。茶店では、身投げをした藤村操の写真なんぞが売られていたそうで、碧梧桐は「嘔吐を催おすほどである。」と書く。そしてこれを踏まえて自殺についてる。肚にまっすぐ響く、この文章が好きだ。

「一体死ということは、世の中の刺撃に堪えない結果を意味しておる。病死老死変死、いずれも世の刺撃に堪え得ない場合の結果である。普通の人間が生き得る世の刺撃に堪えないで、自ら死ぬるというのは、抵抗力の少ないことを証拠立てておる。鉄道の踏切番をしておっても、今日生きておる者は、自殺者に比ぶれば遥に力強い処がある。多少の除外例はあるとしても、生きておるということに即ち世間の刺撃に堪え得る力の存在するということは、人間社会を形づくる貴重な土台ではあるまいか。」
 
「宇宙には趣味の半面と理窟の半面とがある。月は美しい、というのは趣味である。月は何故東から西に移るか、というのは理窟である。趣味を解せぬ物は理窟を研めて満足する。理窟に疎い人間は趣味を求めて喜んでおる。人間が生れ落ちてから相当な学問と経験を積むまでは、身は常に暗黒裏にある。その性惰のおもむく所に従うて、あるいは理窟の明るみを認めようとし、また趣味の光を浴びようとする。その暗黒裡を脱して光明を得んがためには何人も力のあらん限りに戦う。ある時間の中にこれを得た者は生き、これを得ぬ者は自殺する。饑に迫って食を得ず、寒に処して衣を得ぬのと同じことである。世態人情の複雑な間には種々こみいった事もあろうけれども、要するに自殺者は暗黒裡の徘徊者である。」

生きろ生きろ。碧梧桐に言われているようだ。ある程度齢をとるまでは、真っ暗闇で先が見えず、苦しいものなのだ。青春なんて美しく言うけれど、若いというのは苦しいのだ。その中であがいてあがいて生きてみれば、いつの間にか闇は脱して、すかんと明るいところにいる。それでもいろいろあるけれど、生きている、というのは、世間の刺激に耐える力が存在するということ。碧梧桐はそう言い切る。力強い言葉を、2009年、32歳の私は、33歳の碧梧桐から今、受け取っている。
明治39年(1906年)9月6日、碧梧桐は筑波山へ登っている。そうだ、筑波山へ行ってみよう。今は雨だけれど、明日は晴れるようだ。

夜、雨の音がしていたが、雨は上がっている。今日は予報どおり晴れそうだ。2009年4月26日。2009年の今は、秋葉原からつくばまで、つくばエキスプレスという電車が走っている。そしてつくば駅から登山口まで所要時間50分の直通バスが出ている。

「男体へ上るつもりなのが、女体の道を来たのである」と碧梧桐は書いている。地図を眺めてみる。きっと筑波山神社から、御幸ヶ原コースを行くつもりが、白雲橋コースを行ったのではないだろうか、そうに違いない。歴史ある筑波山神社は結婚式の最中だった。幸せを分けてもらった気になって、今は白雲橋コース、と名のついたコースを歩きはじめる。

碧梧桐が休んだ弁慶の力水の茶店も弁慶力餅の茶店も今はない。地図には「弁慶茶家」というのがある。「弁慶七戻り、胎内くぐり、高天原などその他いろいろの岩の間を攀じて一気に女体の絶頂に」碧梧桐は達し、そして社殿でなんと安産のお守りを受けている。女体山の神社には金の橋が架かっていて、何とも現世くさい。碧梧桐のお守りに引っ張られ、売られているお守りも見ていると、「幸」と刺繍されている小さなお守りがある。「幸」という字が名前についている、会社の後輩へお土産にする。女体山からの眺めは広い。霞ヶ浦から広く関東平野を見渡し、遠く霞むのは新宿の高層ビル群。そしてそれより向こうに、幽かに富士山も浮かんでいる。

ロープウエェイやケーブルカーで来る観光客もいるため、男体山への鞍部はちょっとした観光地化している。回転展望台があり、広場の手前には食堂が軒を連ねる。「親子丼」の幟に抵抗できず、親子丼で昼食とする。

明治39年(1906年)の碧梧桐は、岩間まで出なければならない。男体山の社守りに「お昼には晴れる」と言われながら、すでに下りはじめ、同じ道を荷物を預けた弁慶力餅屋まで戻り、そこから小幡、柿岡方面へと下りていく。ということは、今でいう「つつじヶ丘」へ下りたのだ。そう検討をつけ、つつじヶ丘コースを選ぶと、岩のあとに分岐がある。ここが碧梧桐の弁慶の力餅茶店、地図の弁慶茶屋に違いない。そこからつつじヶ丘への道は、関東平野を背景に、ちょうどつつじが素晴らしく、夢のようにきれいだった。碧梧桐の遊んだ9月は、女郎花や撫子だ。

明治39年(1906年)の碧梧桐はつつじヶ丘どころではない。ずっと先の小幡で、やっと飯、おそらく昼飯にありついている。そしてさらに迷いながら、岩間の停車場、今の常磐線岩間駅まで歩き続ける。朝7時半に「筑波の町」を出て、岩間発夕方6時38分の汽車に乗り、7時半水戸着。2009年。朝7時20分千歳烏山駅発、夕方6時千歳烏山の家へ到着。
なかなか入れなかったので、5分くらいでいったん中断。10分くらいしてから、電気を消して、やり直す。

呼吸が気持ちよくなってきて、途中で、マントラを止める。この状態だと、マントラが「思考」だな。と感じ。マントラなしで、呼吸だけで気持ちよく、ふらふらと揺れてくる。揺れが止み、前日と同じように首が動いてきた。前の日、ぐっすり眠れ、朝、運動したあとのような微かな疲労のある目覚めだったため、たぶん、これって必要なストレッチなんだろうな。と漠然と思っている私がいる。そんなこと思うのはちょっと恣意的でいやらしいけど、ストレッチもいいかな。と思いつつ、続ける。
 
右上を向いた変な状態、首の左うしろと、右のこめかみがストレッチされたような状態のとき。

呼吸していると、突如激しい嗚咽。呼吸するだけでも大変な体勢なのに嗚咽!

見たのは、甲府駅のバス停。彼がぎりぎりでバスに乗り込むところ、という、実際にあった光景。別れを噛みしめる旅のはずが、なぜか同じ行程で山へ向かい、別々の山に登り、別々の山で一泊し、同じ行程で帰ったという、その行きのバス。コンビニで忘れ物を買う彼、出発しそうなバスの中でヒヤヒヤして待つわたし。その日のことはよく覚えているし、でも思い出す場面でもなかったし、思いだしても泣くようなところではない。それが嗚咽。

このときも映像は、ストーリーではなく、切り取られた、一枚の絵、でした。一つ違うのは、初めて、映像に彼が出てきた。青のカリマーを担いだ彼。

目を閉じて、一生懸命呼吸して、呼吸に戻らなきゃ、と思ったけれど、そのままが自然だったから、そのままでいた。それでも、このときも、感情は何もなかった。感情と映像が繋がっていないまま、ただ変な姿勢で泣いた。

それがいつの間にか、ぴたっ。と止まり。静寂が戻ってきました。
夜。です。

呼吸って丸いんだ。という気がして、顔の前にあるバレーボールくらいの球体と一体になって呼吸しているような感じが、呼吸の10回目くらいからしてきました。それで、呼吸していたら、だんだん呼吸が丸くなってきました。

丸いボールと一緒に呼吸しているうちに、息を吸うときに、ボールに顎を押し上げられるような感じで、頭が上がり、首が伸ばされました。呼吸とともに頭がちょっとずつ動き、変な角度で静止しました。首の筋が気持ちよく伸びた状態で、やりにくいけれど、深い呼吸に集中していました。10回くらい呼吸したでしょうか。首が、ちょっとずつ、ほんと1度ずつ、というくらいちょっとずつ、動きます。そして、また、変わった角度で静止。。。
 
なんとなく、もういいかな、と思ったので、何回かの呼吸の間に、頭がまっすぐ安定するようにゆっくりゆらゆら戻ってきました。目を開けたら、ちょうど15分でした。
今度出てきた映像は、東西線竹橋駅の地下から外に出る出口。なんとかホテル(覚えてない)の入口に通じる出口。

これは、仕事のお遣いで司法書士事務所に行ったとき、あ、彼の会社、ここなんだ。と思った場所。彼の会社は、出口の黄色い看板に書かれるような大きな会社で、わたしが司法書士事務所へ行くために使った出口が、まさに彼の会社に一番近い出口だった。司法書士事務所で用事を済ませ、駅まで戻り、彼の会社を見上げる。そして一周。「今〇〇ホテルのとこなんだ」とメールをし、夜、「お、どうしたの?」と返事をもらったのだった。

映像に表れたのは、ストーリーではなく、写真のような風景。外に出た瞬間に、あ、そう言えば。と思った、そのとき見上げた空そしてビル、でした。

悲しいとか、想い出チックな感慨などなく、やっぱりただ写真を見ているような感覚のまま、涙を流していました。
集中できないからいったん中断、再開版。
実家からチャリで帰ってる途中、脳が暴走を始めたので、「早くお家に帰って瞑想したいっ!」と思う。
 
呼吸法は間違っているかもしれないけど、初日のように、脳に直接酸素がいく感覚を求めて彷徨う。マントラを唱えながら呼吸集中すること約10分くらい。

海が見えてきました。船の上。なぜか横浜だと認識。突如、涙が溢れる。
「今度行こうよ。」それは、果たされなかったけれど、彼の口から初めてそして唯一聞いた、二人未来図。
映像には甲板と海しかなかったけれど、隣に彼がいて、二人とも同じ方向を、海を、見ているのがわかる。

呼吸を繰り返す。マントラを唱える。

映像には感情はなく、ただただ、きれいな景色だなぁ。と思いながら、涙が流れました。
 
涙がおさまると、とっても平穏な時間がやってきて、もう映像を思い浮かべても、涙はでず、心地よい呼吸をしている自分を感じ、そうして2・3回呼吸をしてから目を開けると、ちょうど15分でした。


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