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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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やさしくいよう。

やさしい女性でいよう。

心地よい女性でいよう。

大きな、包み込むような、そんな女性でいよう。
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今日は、夢、の話をします。眠っているときの夢。

みなさん、夢って、ストーリーありますよね。
混乱した、わけのわからない、だからこそ面白いストーリー。
わたしが中国語しゃべれないのに、中国で家を買う、という夢を見てくれた人もいます。
会社の子で、わたしに家計簿を怒られた、という子もいます。(経理やってますから^^v)

わたしの実感だと、たぶん、眠っている間に、起きているときの莫大な情報を、脳が整理するんです。
その過程で意識がふと目覚めるときが、「夢を見た」というときで、
脳が情報を一生懸命整理しているから、いろんな情報が混乱して、
奇想天外なストーリーができあがる。
昼間の情報量が多いほど、情報と情報が変なふうにつながって、面白いものができる。
ほんと夢、って面白い。でもそれって、自分の発想力です!

ところが、ここしばらく、わたしの夢は、動かなかったのです。
白黒の静止画。
ストーリーの展開能力がない。脳が情報整理をストップした状態。
わたしは夢を見ているんだ、と認識しているのです。
それで、ストーリーを作らなきゃ、と思うのです。で、止まってしまう。
夢だ、という認識がどこかにあるので、怖いですよ、これは。


3週間会社を休みます。今日は会社に行かなくていいのが嬉しくて、12時間の眠りでやっと夢にストーリーができました。会社に行ったら、8F(前の事務所と少し混乱している。今は14F)でエレベーターを降りたら工事中。うちの会社は、また引っ越しをした、と言われます。それも1Fに。聞いてないよ、という状況も充分ありうるうちの会社。でも、1Fのオフィスは快適で、ここなら仕事続けてもいいなぁ、と思ったのでした。

若竹の節しつかりと生きてゆく
もうすでに六月の風渋谷駅

眠るだけ眠っていれば梅雨の晴れ

額の花真上に太陽あるといふ

おしゃべりの紫陽花小さく活けてあり

赤い傘いつも右手に梅雨晴間
鬼怒川への言及は、「鬼怒川の沿岸氏家氏の城趾勝山から船を下して宝積寺に遊んだ」のみである。明治39年(1906年)10月1日のことである。

1995年の鬼怒川は、寂びれた温泉街、という趣だった。大きなホテルが何件もある。そのうちの1件の別館に、毎年全国のダンス部学生が集まる。大学の枠を超えて友情を深めましょう。そういった主旨の合宿で、昼夜遊ぶ。メインは1年生である。夏休みなので、1年生は大学生になったばかりだ。だから、春の「御宿」での合宿より、1年生はまだまだ純粋であり、そして人数も桁違いに多い。

鬼怒川での遊びとは。

昼の鬼怒川遊びの一番は、なんと「秘宝館」だったりする。鬼怒川には「秘宝館」がある。ここへ、上級生が1年生を連れて行く。大人用性講座、いや、大人養成講座。
部屋ではいろいろな遊びがある。とても楽しいのは男の子を女装させるものだ。かわいい男子に女子のワンピースを着せ、女子が可愛く化粧をしてあげる。彼らは女の子の格好をしたまま夕食の大宴会場へ行くことになり、男らしく浴衣のはだけた偉そうな先輩たちのお茶汲命じられたりする。
そして夜の遊びは「肝試し」。ホテル内で行われる。ホテルには、エレベータの止まらない最上階と地下1階がある。使われていない最上階。そこは呪われたお化け屋敷である。そして地下1階。ここは、かつての大浴場である。洪水で死者も出た場所であり、その後使われなくなった、という。実話であるこの話を含め、さんざん怪談話をしたあと、怖いもの見たさの1年生が上級生に連れて行ってくれとせがむ。まず最上階へ、そして地下へ。立ち入り禁止のロープを越えると、洗面器などもそのままの大浴場である。従業員につかまるとものすごく怒られる、という意味での肝試しでもある。さすがに一人で行かせたりはしない。
こうして大学1年生は鍛えられていく。

鬼怒川は、本当はとてもきれいな渓流である。1997年、私にとって3回目の合宿でのことである。3回目でありながら実は行ったことのない秘宝館へ行く選択肢もあったけれど、わいわい騒ぐのは下級生にまかせて、3年生のお姉さまである私たちは、のんびり渓流散歩を選ぶ。五平餅を食べながら歩く渓流。オトナ気分に浸る。ホテルに戻って、大浴場で温泉を堪能する。そう、鬼怒川は、本当はとても素晴らしいところなのだ。
華厳の滝を碧梧桐が訪れたのは、一高生藤村操が華厳滝で投身自殺した3年後の年、明治39年(1906年)9月24日である。藤村操は「巌頭之感」という遺書を残し、華厳の滝に身を投げた。哲学的なことを考えて厭世的になり、「終に死を決するに至る」となってしまったわけだ。茶店では、身投げをした藤村操の写真なんぞが売られていたそうで、碧梧桐は「嘔吐を催おすほどである。」と書く。そしてこれを踏まえて自殺についてる。肚にまっすぐ響く、この文章が好きだ。

「一体死ということは、世の中の刺撃に堪えない結果を意味しておる。病死老死変死、いずれも世の刺撃に堪え得ない場合の結果である。普通の人間が生き得る世の刺撃に堪えないで、自ら死ぬるというのは、抵抗力の少ないことを証拠立てておる。鉄道の踏切番をしておっても、今日生きておる者は、自殺者に比ぶれば遥に力強い処がある。多少の除外例はあるとしても、生きておるということに即ち世間の刺撃に堪え得る力の存在するということは、人間社会を形づくる貴重な土台ではあるまいか。」
 
「宇宙には趣味の半面と理窟の半面とがある。月は美しい、というのは趣味である。月は何故東から西に移るか、というのは理窟である。趣味を解せぬ物は理窟を研めて満足する。理窟に疎い人間は趣味を求めて喜んでおる。人間が生れ落ちてから相当な学問と経験を積むまでは、身は常に暗黒裏にある。その性惰のおもむく所に従うて、あるいは理窟の明るみを認めようとし、また趣味の光を浴びようとする。その暗黒裡を脱して光明を得んがためには何人も力のあらん限りに戦う。ある時間の中にこれを得た者は生き、これを得ぬ者は自殺する。饑に迫って食を得ず、寒に処して衣を得ぬのと同じことである。世態人情の複雑な間には種々こみいった事もあろうけれども、要するに自殺者は暗黒裡の徘徊者である。」

生きろ生きろ。碧梧桐に言われているようだ。ある程度齢をとるまでは、真っ暗闇で先が見えず、苦しいものなのだ。青春なんて美しく言うけれど、若いというのは苦しいのだ。その中であがいてあがいて生きてみれば、いつの間にか闇は脱して、すかんと明るいところにいる。それでもいろいろあるけれど、生きている、というのは、世間の刺激に耐える力が存在するということ。碧梧桐はそう言い切る。力強い言葉を、2009年、32歳の私は、33歳の碧梧桐から今、受け取っている。
明治39年(1906年)9月6日、碧梧桐は筑波山へ登っている。そうだ、筑波山へ行ってみよう。今は雨だけれど、明日は晴れるようだ。

夜、雨の音がしていたが、雨は上がっている。今日は予報どおり晴れそうだ。2009年4月26日。2009年の今は、秋葉原からつくばまで、つくばエキスプレスという電車が走っている。そしてつくば駅から登山口まで所要時間50分の直通バスが出ている。

「男体へ上るつもりなのが、女体の道を来たのである」と碧梧桐は書いている。地図を眺めてみる。きっと筑波山神社から、御幸ヶ原コースを行くつもりが、白雲橋コースを行ったのではないだろうか、そうに違いない。歴史ある筑波山神社は結婚式の最中だった。幸せを分けてもらった気になって、今は白雲橋コース、と名のついたコースを歩きはじめる。

碧梧桐が休んだ弁慶の力水の茶店も弁慶力餅の茶店も今はない。地図には「弁慶茶家」というのがある。「弁慶七戻り、胎内くぐり、高天原などその他いろいろの岩の間を攀じて一気に女体の絶頂に」碧梧桐は達し、そして社殿でなんと安産のお守りを受けている。女体山の神社には金の橋が架かっていて、何とも現世くさい。碧梧桐のお守りに引っ張られ、売られているお守りも見ていると、「幸」と刺繍されている小さなお守りがある。「幸」という字が名前についている、会社の後輩へお土産にする。女体山からの眺めは広い。霞ヶ浦から広く関東平野を見渡し、遠く霞むのは新宿の高層ビル群。そしてそれより向こうに、幽かに富士山も浮かんでいる。

ロープウエェイやケーブルカーで来る観光客もいるため、男体山への鞍部はちょっとした観光地化している。回転展望台があり、広場の手前には食堂が軒を連ねる。「親子丼」の幟に抵抗できず、親子丼で昼食とする。

明治39年(1906年)の碧梧桐は、岩間まで出なければならない。男体山の社守りに「お昼には晴れる」と言われながら、すでに下りはじめ、同じ道を荷物を預けた弁慶力餅屋まで戻り、そこから小幡、柿岡方面へと下りていく。ということは、今でいう「つつじヶ丘」へ下りたのだ。そう検討をつけ、つつじヶ丘コースを選ぶと、岩のあとに分岐がある。ここが碧梧桐の弁慶の力餅茶店、地図の弁慶茶屋に違いない。そこからつつじヶ丘への道は、関東平野を背景に、ちょうどつつじが素晴らしく、夢のようにきれいだった。碧梧桐の遊んだ9月は、女郎花や撫子だ。

明治39年(1906年)の碧梧桐はつつじヶ丘どころではない。ずっと先の小幡で、やっと飯、おそらく昼飯にありついている。そしてさらに迷いながら、岩間の停車場、今の常磐線岩間駅まで歩き続ける。朝7時半に「筑波の町」を出て、岩間発夕方6時38分の汽車に乗り、7時半水戸着。2009年。朝7時20分千歳烏山駅発、夕方6時千歳烏山の家へ到着。

手も足も出ず筍ののびざかり

小波はもうすぐ夏を連れてくる

初夏の日に透明な写真立て

失ふもの何一つなく一人の夏

波見えるところまで来てトマト齧る

大好きな人に大好きと二度目の夏

人生で何人の人を好きになるんだろう・・・

会社の、バツイチのお姉さんが呟いた。
彼女は38歳にして、中学3年生の娘がいる。
その子の父親のことを「結婚していた人」と呼ぶ。
誰かいい人いないかしら。
いつも言っている。

わたしは人生で何人の人を好きになるのだろう。
そして、誰が一番好きなのだろう。
そのとき、そのときで、そのとき一緒にいる人が一番なんだけれど、
子供ができたら、その子のパパが、わたしの一番であるのだろう。
わたしの一番、証。
今は、証をもらえなかったけれど、とっても温かい心で
思い出せる人、がいる。
わたしの一番。人生の一番、であればいいなぁ。
なかなか入れなかったので、5分くらいでいったん中断。10分くらいしてから、電気を消して、やり直す。

呼吸が気持ちよくなってきて、途中で、マントラを止める。この状態だと、マントラが「思考」だな。と感じ。マントラなしで、呼吸だけで気持ちよく、ふらふらと揺れてくる。揺れが止み、前日と同じように首が動いてきた。前の日、ぐっすり眠れ、朝、運動したあとのような微かな疲労のある目覚めだったため、たぶん、これって必要なストレッチなんだろうな。と漠然と思っている私がいる。そんなこと思うのはちょっと恣意的でいやらしいけど、ストレッチもいいかな。と思いつつ、続ける。
 
右上を向いた変な状態、首の左うしろと、右のこめかみがストレッチされたような状態のとき。

呼吸していると、突如激しい嗚咽。呼吸するだけでも大変な体勢なのに嗚咽!

見たのは、甲府駅のバス停。彼がぎりぎりでバスに乗り込むところ、という、実際にあった光景。別れを噛みしめる旅のはずが、なぜか同じ行程で山へ向かい、別々の山に登り、別々の山で一泊し、同じ行程で帰ったという、その行きのバス。コンビニで忘れ物を買う彼、出発しそうなバスの中でヒヤヒヤして待つわたし。その日のことはよく覚えているし、でも思い出す場面でもなかったし、思いだしても泣くようなところではない。それが嗚咽。

このときも映像は、ストーリーではなく、切り取られた、一枚の絵、でした。一つ違うのは、初めて、映像に彼が出てきた。青のカリマーを担いだ彼。

目を閉じて、一生懸命呼吸して、呼吸に戻らなきゃ、と思ったけれど、そのままが自然だったから、そのままでいた。それでも、このときも、感情は何もなかった。感情と映像が繋がっていないまま、ただ変な姿勢で泣いた。

それがいつの間にか、ぴたっ。と止まり。静寂が戻ってきました。


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