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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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新宿から夜行バスに乗って、朝5時に沢渡で低公害バスに乗り換え、朝6時には上高地へ入る。ひんやりとした空気が心地よい。
ここへ来る直前、河東碧梧桐が穂高を目指したときの話を読んでいた。碧梧桐は明治6年(1873年)生まれ、日本山岳会創始者小島烏水と同じ年である。ちなみに日本山岳会発足が明治38年(1905年)10月14日で、その翌年明治39年(1906年)8月6日に碧梧桐は三千里の旅をスタートさせた。アルピニストとして有名なのは小島烏水で、とにかくそういう時代の話だ。碧梧桐は猟師を雇って道なき山を目指した。当時は新島々から徳本峠を歩かなければ上高地へは入れない。今もあるルートだが、碧梧桐は言っている。「上高地までなら少し歩けば行けるんだから、もっとみんな行ったらいい。少し歩けば別世界なのだから。」(意訳)
 碧梧桐の助言通り上高地は開発され、今はバスでここまで誰でも来ることができる、美しい観光地となっている。梓川に沿って歩き始め、河童橋を左に見ながら通り過ぎる。さらに歩いて道なりに曲がると明神岳がどーんと見える。この景色は何度見ても圧巻で、本当に息をのむ美しさなのだけれど、初めてのMの感動はひときわで、わたしがその景色に騒がないのが驚きだったようだ。確かにそうだな、と思った。わたしはこんなに美しい中を、別段の関心も持たずに通り過ぎるところだった。そう言われてみて初めて、足を止め、体を横に向け、あらためて顔を上げた。見上げると、梓川の向こうの明神は大きく、そして緑だった。あ、と思った。それは、大きな発見だった。ここは4回目になるけれど、8月に来たのは初めてだった。去年の北穂も蝶も一昨年の奥穂も9月だった。夏の上高地、夏の穂高はすべてがわたしにとって初めての景色だ。緑の明神、緑を映す梓川は、新鮮だった。

 重い荷物を持っていても、横尾までは問題ない。横尾で休んでいると、水を探しに行ったMが嬉しそうに戻ってきた。素敵な橋があった、と。その橋を歩いてみたり、橋からの写真を撮ったりしてきて喜んでいる。今からその橋を渡って行くんだよ、と言うとなーんだ、と言う。梓川を渡るときのこの景色も美しいのだけれど、感動している人をすぐ目の前に見ると、あらためてゆっくりと見ることになる。それはいいことだった。緑の梓川を、右も左も、何度も何度も見て、満足して橋から下りた。重い荷物が重さを主張してくるのは、このあとからだ。
 横尾の先は、今までとちょっと違って、熊笹の中を行く。熊笹に気がいったのは、碧梧桐の穂高を思い出したからだ。碧梧桐は新島々から徳本まで、徳本から上高地まで、そして上高地からも熊笹の中を歩いている。でもそんなことを気にしていられたのは最初のうちだ。大きな木でちょっと暗く、足元も山っぽくなってきて、そして何より登りが始まる。涸沢までは楽チンだ。なぜだか頭はそう覚えているので、ほんの少しの登りでも、驚いてしまう。こんな大変だったっけ。荷物の軽いMにはMのスピードで前を行ってもらう。橋で休憩し、そのあと猿に会ったりしながら、けっこう大儀に歩き、涸沢が見えた!となったらやっとなんとかなるような気がしてきて、それでもうちょっと頑張って、横尾から2時間、やっと涸沢に着いたのだった。
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