忍者ブログ
流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
[8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

あまりにも勢いのよい私たちを見込んで、蓋をあけたところまでの長い側溝を終えると、道の続きではなく、角地の更地のヘドロ取り作業が私たちに与えられた。この作業は、まこっちゃん曰く「砂場の砂を掻いている感じ」。乾いた土、ヘドロ、砂利。鍬で土地をおこし、タールの部分まで取り除いていく。30分ごとにこまめに休憩を取り、この作業を続ける。土嚢もたくさん作られていき、回収のトラックが来るとトラックに積んでいく。トラックの運転手は抜擢された4班の人で、回ってくると喜んで迎え、手を振って送りだし、何周もしている間に仲間になって、道の向こうからヘッドランプでピカッと挨拶してくれるようになった。

今回の作業で前回と一番違ったのは、地域住民の方に呼びかけたことだ。この地域の側溝は、市がやるか、住民がやるか、ボランティアがやるか、二転三転四転五転した結果、住民主体でボランティアがお手伝い→そうは言っても地域住民は高齢者が多く、また自宅もやられている現状で、現実的にそれは無理、ボランティア主体でできるだけ地域の方を巻き込むという方針に決まったという背景があった。作業を始めると、ボランティアのTOP真奈美さんが、自転車で走りながらトラメガで呼びかける。「住吉町のみなさん。ボランティアが側溝の清掃をします。よかったら一緒にお手伝いください。」この結果、ご自宅にいらっしゃるお宅では、どのおうちからも住民の方が外に出て、おじいさんは実は側溝の蓋あけが上手だったり、そのおじいさんを師匠と呼んで教えてもらったり、ホースで水をくれたり、おにぎりや磯辺焼きの差し入れをいただいたりした。極めつけは、お昼におにぎりをくださったおうちで、夕方もう一度撤収に間に合うように作ってくださり、箱ごとキャンプ場へ持ち帰った。全部のおにぎりを食べ終え、箱を捨てる前に底に敷いてあったアルミホイルを取り除くと、なんとメッセージが書いてあった。

「頑張ってくれた皆様  遠いところ被災地石巻住吉町にお越し下さいまして本当にありがとうございました。感謝です!ありがとう。きれいになったら又来て下さい。おにぎりよりおいしいもの、ごちそうしたいです!」

PR
同じ時代に生き、同じ時間に同じ地震を経験した身として、破壊された街をどうしても見ておきたい。そういう思いがあったので、一度目は、どうも整理がつかなかった。私の中では、「復興」とか「支援」なんていうのはおこがましく、あえて言うならば「鎮魂」だったのだろうか。経験したこともない揺れとその後の異常、そしてそれ以上の被害を知った時の衝撃。私は私自身のために、東北へ行きたかった。

今回。この考えは、大幅に前進した。

【石巻での活動】6.4-5

住吉地区での側溝清掃作業。6人ずつの7チームで、一つの区画、一本の通りの側溝をつなげる。私のチームがすごかった。あまりにも素晴らしいチームだったので、名前も出して記録しておきたい。まず、活動以前。前日の夜10時の新宿集合。リーダーが仕事のトラブルで来られないとの連絡が入る。そして、「車で行っていいかなぁ」。スタッフからNOが出たのも隣で聞いていたが、「来ちゃえ、来ちゃえ」。前代未聞の、自家用車で現地へ乗り付け、リーダー降格、名指しで怒られ無事チームへ合流。ほかのメンバーは新リーダーひろくん、まこっちゃん、おにぎりまん、長山くん、梅ちゃん、わたし。一日目はダメ元リーダーとまこっちゃんがバール隊としてチームから抜け、チームは解体、そこにスタッフのコバさんが参加。最初は2班と4班の間の場所をのろのろとやっていたが、コバさんの的確な指示もあって、すぐに側溝掃除のコツをつかむ。LL(リーダーリーダー)のカズさんのチェックを受け、ブラシでごしごし側溝を浚うことを覚え、見た目にもかなり完璧な仕上がり。前回のテッドさんの教えを受け、蓋を閉めたあとの道路と側溝の上をきれいに掃除。そこを終わらせて、7班の隣へ移動。新しい場所も時間内に目標まで終わらせる。二日目、ダメリーダーとまこっちゃんがチームに戻ってきて、チームはさらにパワーアップ。コバさんは今日は留守番、代わりに途中から文ちゃん(みんなはヒロヤさんと呼んでいる)が合流。1か所目、すごい勢いで片付いてしまい、おうちの人としばらく談笑して次へ移動。次の場所はかなり長くその通路の端までやってしまおうという勢い。ヘドロをたくさん取れれば「来た~!!」、おにぎりまんが頑張れば「おにぎりパワーだ!!」。個性あふれるチームメンバーはとにかくみんなコミュニケーションが好きで、なんだかんだその場を楽しく突っ込みながら、どんどん作業は進む。
百人の汗一つずつ土嚢積む

小満や街角に積まれゆく土嚢

積み上げし土嚢に初夏の光かな

潮浴びしはずのすずらん門に咲く

ラジオ体操けふも土嚢の日としやう
【石巻でのスリランカ軍の活動】

私たちが側溝の掃除をしていた新館地区。この地区はそれまで危険地域として、ボランティアの手が入らなかった。

私たちが新館地区の担当場所へ移動するとき、外国人の作業集団がいた。朝、宿泊地の石巻専修大学で、揃いの青い作業服を着たこの集団を見ていた。彼らはここで働いていた。胸ほどの深さのある側溝へ入って作業をしている。国旗と、友好の旗を立てていた。横を通ると、「おつかれさまです」。彼らはスリランカの陸軍だった。

震災発生当初、各国の人的物的支援の申し出があった中に、スリランカ軍もあったそうだ。ニュースでも聞いたような話だが、どういう事情か、日本国政府は、多くの人的支援を断ったようだ。スリランカ軍も、日本国政府が断った一つらしい。それでも、スマトラ島沖地震で同じく津波の被害を受け、そのとき一番に駆け付けたのは日本の医療チームだったという恩を、スリランカは忘れなかった。スリランカ政府はスリランカ軍を、文民として、民間のピースボートのボランティア団体へ派遣した。日本のボランティアでは対応できなかった危険地区へ、このプロチームは入ることになった。

その働きは尋常ではなく、屈強なスリランカ人たちは、黙々と瓦礫撤去作業や深い側溝の清掃作業をしている。翌日の午後、彼らは前日からはだいぶ離れたところにいた。土嚢の大きさも尋常ではなく、わたしたちは、ただただスリランカ軍への感謝と畏敬の念に打たれた。
【石巻での活動内容】

2.民家の壁剝し

二日目の午前中、天候不順のため、側溝は保留し、民家へ向かう。1Fに3部屋くらいの民家なので、通常なら1グループで対応するところを、この家に住む母娘もびっくりの3グループ20人で伺う。部屋の壁の高いところに、津波の跡がある。津波の跡の少し上、天井まで10cmほど残して石膏を剝していくのが今回の作業。そのあとはプロの大工さんの仕事となる。バールで壁を叩き、剝すラインを付けていく。その下の壁をびりびり剝していく。一気に壁が剝されていく。見守る奥さんと娘さんは、この光景をどう感じているのだろう。「こんなに一気に変わると悲しくないですか?」「もっと悲しい光景をいっぱい見ましたから・・・」。

ガンガン剝し、剝した石膏をガサ袋に詰め、降ったり止んだりの外に運ぶ。現れた柱に打たれた釘を、抜いていく。剝し残しを丁寧に取り、柱に溜まった埃や石膏を落としていく。そして床に転がっているたくさんの釘を分けながら、床を掃除してく。台所は、さらに床下収納がドブになっていて、担当グループがバケツリレーを始めている。ドブとなった真っ黒な水を全部出し、床下収納のボックスを取り出して外で洗う。集合場所からネコでモップや雑巾が運ばれ、家の中では床をぴかぴかに磨き上げる作業が始まっていた。

一部を残し昼食休憩に入り、集合場所に戻った。1グループが午後にこのお宅の清掃作業を完了させた。

【石巻での活動内容】

1.新館地区の側溝の泥出し

この地域は、全・半壊地区で、危険区域に指定され、今まではボランティアの手が入っていなかった地区だそうだ。この地区のカスカファッションの倉庫をピースボートのボランティアが泥出し、清掃した関係で、その後この場所もピースボートボランティアの拠点となり、いなかった新館地区の住民の方の、きれいになるならば住みたい、という声も届き、この地区もボランティアの対象地区になったとのこと。

側溝とは、道路の横にある溝で、ヘドロやいろいろなものが溜まって水が流れない状態になっている。バールを使って蓋を上げ、シャベルで泥を掘る。泥は土嚢に詰め、道の端に積んでいく。この肉体労働を、役割分担して繰り返す。震災から2か月経ったヘドロは異臭を放ち、水を吸ったヘドロは重い。初日の半日で、角の一角と向かいの一部、二日目の午後で向かいの一軒分ほどの作業を行い、隣の一軒分を向こうからやってきた隣の班とぶつかって、一本の側溝が繋がった。

やっと被災地ボランティアへ行くことになった。

一人で被災地へ入っても右往左往するだけなので、きちんと組織だったところと思うと、ap bankとピースボート主催で石巻へ行くボランティアになる。週末だけ行くことができる社会人向けで、金夜発月朝着のツアーを毎週出発させている。行く日に合わせて、事前の説明会に参加することが条件で、先週の土曜日に説明会へ行ってきた。

今被災地で必要とされていることは、まずは泥かきだ。ヘドロの説明を受け、必要な持ち物の説明を受ける。テント・寝袋他キャンプ用品は持っているから行けるだろう、と思っていたけれど、甘かった。必須のものとして、安全長靴、皮手袋、耐油性ゴム手袋、防塵マスク、密閉性のゴーグル、そして防水ヤッケが挙げられている。ヘルメットは現地で全員着用、貸出をしてくれる。さらに水と食料は持参。そして今週中にボランティア保険に加入しなければならない。

説明会後半では、並んだ椅子の列ごとで6人ずつのグループとなり、このメンバーで今後は行動することになる。リーダーを決め、メンバーの連絡先交換、必要書類記入等を行い、1週間後の再会を約束して、約3時間の説明会が終了した。

去年の11月から、この半年ほど、ずっと考えてきたこと。

どう生きるか。

私にとって大切なこととは。

私が人生で手に入れたいこととは。

やっと見えてきた。

だいぶわかってきた。

見えてくると、わかってくると、

現状との乖離もわかってくる。

今は、そっちの方向の価値観の中にできるだけ浸かり、

感性を研ぎ澄まして、「こうありたい」に近づこう。
朝まだ暗いうちに大清水へバスは到着した。地面に座っておにぎりを食べ、出発する。私たちは今日、10時間歩く。まわりのペースが速く、つられそうになるマリコさんを落ち着かせて、のんびりと行きましょう、と言う。林の道なので日の出は見られないが、だんだん朝になってくる。清々しい朝の気配に、マリコさんは、しきりに私に感謝を述べる。いや、だから、これからまだ10時間歩くのですよ。

林道を歩くこと数時間、尾瀬沼へ出る。尾瀬沼は青く、空も青く、燧ケ岳はきれいな独立峰として存在していた。もう9月だけれど、日差しは夏で、空の青さも夏だった。尾瀬沼の反対側まで歩いたら、そこから山登りが始まる。
  知り合いが尾瀬で働いているから行きますか?

軽く社交辞令くらいのつもりで言ってみたら、マリコさんは卓上カレンダーを持って私の席にやってきた。

  いつ行く?

というわけで、一人だったらなかなか上がらなかった腰を上げ、尾瀬へ行くことになった。

  私、山登るんで、マリコさんは、尾瀬を散策して先に東電小屋に行っててください。

  何言ってるの?私、体力あるのよ。

というわけで、一緒に燧ケ岳も登ることになった。

尾瀬のお兄さんにメールで問い合わせたら、空いている週末は9月11-12日ということだったので、その日に行くことになった。ついでにお兄さんの名前も、そのとき聞いておいた。カジオさんという苗字だった。

 マリコさんは会社の同僚で、私たちは10人ちょっとの会計事務所で働いている。私は入ってもうすぐ1年というところで、マリコさんはもうすぐ3年というところだ。一番下っ端での1年間、私が入ったときいた人ですでにいない人が4人、私のあとに入って残っているのは私の1週間あとに来た人だけで、すぐに辞めるか辞めさせられるかで一瞬いた人が4人。なんとなくいろんなことに疑問を感じつつも、まあ下っ端だし下っ端働きをやってればいいかというスタンスで、疑問には触れずに過ごしていた。

 この日は定時でさっさと帰り、一度家に戻ってシャワーを浴びて、荷物を持って新宿へ向かった。マリコさんは家が遠いから帰っていたらもっと大変、と荷物を新宿で預けてあり、新宿で時間を潰してもらって合流した。尾瀬の入り口の一つ、大清水までのバスに乗るには、ここからまず池袋、池袋でバスを乗り換えてトコトコ行くのだった。直通バスだから、みんな目的地は尾瀬。なのに、山に登りそうな人が見当たらない。たとえば上高地行きのバスターミナルは、山男山女だらけだ。ここ池袋のバス乗り場にいるのは、今年流行りの山スカートの山ガールたちだった。なるほど尾瀬はそういうところなのかもしれない。何も燧に登らなくても、尾瀬は尾瀬としてそこにあるんだ。ガッツリ山に登らなくてもいい。私を山ガールに仕立てようと目論んだマリコさんと、山ガールデビューを目論んだもののイマイチ乗りきれなくて今回は断念した私は、当然山ガールたちに目が行ってしまう。なるほど、こういう風に着るのね、とか、青いの案外可愛いじゃない、とか、慌てて買わずによかった。参考にさせていただこう。とにかくこの尾瀬に向かうバスの中で、山っぽいのは断然私たちだった。


忍者ブログ [PR]
カレンダー
08 2024/09 10
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
フリーエリア
最新CM
最新TB
プロフィール
HN:
AKIKO
性別:
非公開
バーコード
アナログ時計【トランプ】
お天気情報
忍者アド