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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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陽光を吸い寄せ富士の肌の雪
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あなたはちゃんと愛したよ。
自信を持っていいよ。
彼のことは、あなたが一番理解していたよ。
彼が大切で大切で、行き詰っちゃったんだよ。
彼のことを一番に考えてたよ。
そうしたら、ああするのが一番だったんだ。
ああするしか、方法がなかったんだ。
手詰まりになっちゃったんだよ。覚えてるでしょ?
一生懸命愛した上で、
一生懸命考えた上で、
こうしたんだ。
誰が何と言おうと、あのとき一番彼を理解して、
一番彼を愛して、一番彼のことを考えていたのは、
他の誰でもない。わたしだよ。絶対に。
恋だけじゃない愛情だったのに、
恋をしてしまったから。
私が壊れてしまうところだったから。
コミュニケーションが、取れなくなっちゃったから。
そうしたら、ちゃんと彼を大切にできなくなるから。
彼に負担をかけずに、彼に好きと言う方法。
探したんだ。

今も。ずっと。大切。で、大好き。
自分の嗜好がわかってきた。
歩き続けること。
自分の足で遠くまで行くこと。
普通じゃ見れないものを見るために。

パートナーに求めること。
私をすごいところに連れて行ってくれること。

私が人生で楽しみたいこと。
旅。そして山。
地球を感じて宇宙を感じる。
それを全身で受けとめて、全体を受け入れて、
消化したら言葉に変換すること。


沢庵をぼりぼり齧る恋の果て

大根を抱える友に子二人

40時間てふ記録なる寝正月

ただ眠る眠りの先の雑煮腹

初夢や過去のオトコは守り神
ウイルソン株、という名の切り株がある。大きな切り株で、入口があり、中に入ることができる。
 
トロッコ道を終え、森の中を縄文杉へ向かって歩いていた。私の屋久島イメージに最も近い森の中。山道らしい道だった。トロッコ道に飽き飽きしていたので、きついと言われる道であったが、気持ちよくて嬉しくてたまらなかった。すくっと背の高い大きな木が森を作り、木々の間からは、ちゃんと光が通っていた。

少し広いスペースが現れた。そこにウイルソン株があった。

この切り株がウイルソンという外国人の名前を持っているのは、発見したのがウイルソンさんだからだそうだ。1914年(大正3年)、アメリカの植物学者 Ernest Henry Wilson 博士が発見した。胸頭周囲13.8M。伐採されたのは、一説によると、豊臣秀吉による京都方広寺建立のためであり、当時で樹齢3000年であったという。
 
ウイルソン株の中はとってもとっても静かだった。清水が湧き、祠がある。部屋に入ってきたような感覚だが、切り株だから、天井がない。見上げると空。空なのだが、不思議なことに、空に向かって伸びている木の先に空がある。生えている木を真下から見上げていている。なんと、切り株であるウイルソン株から、その木は生えているのだ。切り株の中から若い木-とは言っても樹齢300年ほどと言われているが-を見上げるのに飽くことがない。その不思議な視覚。その生命力。ウイルソン株は、不思議な不思議なパラレルワールドだった。
社会人になったあとの、自分の来し方を辿っていた。

会社の経営に興味があって、銀行員になった。
経営者の役に立てるかな、そんな甘い思いがあった。
そのうち、生きている実感がなくなってきた。
10年後の借入レートを今固定しましょう。そんな提案、私にはできなかった。
生きている、という気が全くしなくなってきた。
心が壊れた。
身体も壊れる。そう直感して銀行から逃げた。

銀行を辞め、約1ヶ月休んでからインドへ行った。
インドでは、カーリーガート、日本語は「死を待つ人の家」と言われる施設へ通った。
そこは独特な空気が流れていた。
あたたかな空気。
患者が男女50人ずつ、だだっぴろいところにベッドを並べている。
患者にはエイズもいるし、肝炎もいる。
運ばれたときは蛆虫が湧いている。
蛆虫防止に髪を剃る。
シスターと地元のワーカーとボランティアが介護をする。
食事を配り、シーツを洗い服を洗い、屋上に干し、ベッドメーキングをし、薬を配り、手を握る。
今日運ばれてきたおばちゃんが明日亡くなる。
回復したおじちゃんが道へ返される。
10年いた推定90歳のおばあちゃんが死を迎える。

カーリーを中心としたカルカッタでの生活。生きていていいのだ、生きているって、生まれてきたっていう、それだけで奇跡的なことなんだ。生まれて初めて、そう思った。
日本に帰ろう。
日本でちゃんと生きよう。毎日を大事に生きよう。そうして日本に帰ってきた。一年派遣で働き、生活基盤を作るために経理として正社員になって、今に至る。

   そんなことをね、今日は思い出しながら歩いていたんだ。

日が落ちて、暗くなってきた淀川小屋の宵。夕食を食べ終わり、まったりと過ごす長い夜の入り口。同行者の足をマッサージしながら、ぽつぽつと語る。光はただキャンドル。同行者は眼を閉じて、ただ私の話を聞いている。小屋のデッキのベンチで柱にもたれ、私に足をあずけ、そして静かに聞いてくれている。時間はゆっくりと流れてゆく。
ありがとう。その想いが喉まで出かかる。そして呑みこむ。代わりに、自分のことをゆっくりと話す。彼の足へ、感謝を込める。足を私にあずけ、眼を瞑ったまま、彼がつぶやいた。

  幸せだなぁ。

私の目に、涙が、静かに溢れる。
新高塚小屋、という小屋がある。同行者と私の関係は、遡れば、ここから始まっている。

3年前。

同行者は屋久島を旅していた。そのとき出会ったオヤジ3人。そのうちの一人が荻窪BarWELLのマスターであった。マスターは私が出入りしている読書会の仲間であり、山仲間であり、一緒に俳句にはまったりもした仲間である。いつだったか、もう一人の仲間と三人で三頭山へ遊んだとき、「木の葉舞ふ老登山家のハーモニカ」という名句を作っている。さて3年前の新高塚小屋である。このときBarWELL新高塚小屋店、がOPENしたそうな。その縁で、その後東京で就職の決まった同行者は、私のコミュニティーの仲間となる。ただし彼と私の直接の出会いはずっと後のことだ。このグループの山行に私がフル参加するようになった昨年、秋のオオマテイ山に彼が参加したのが、私たちが直接出会い、親しく話すようになった最初である。

彼にとって思い出の、縁深き新高塚小屋。屋久鹿に出会い猿に出会う。鹿が水を飲んでいるその水場で水を汲む。

 急いでもしょうがないから、お茶でもしない?

同行者の提案に賛成する。同行者がお湯を沸かしてくれる。ゆっくりとお茶を飲む。2008年の新高塚小屋で。
他に方法はなかったのだろうか。

言い方は。態度は。

彼に対する私の解釈は間違っていなかっただろうか。


宮之浦岳は標高1,936M。屋久島の最高峰であり、深田久弥の日本百名山の一つである。(因みに永田岳1,886M、黒味岳1,831M)

 宮之浦岳はあんまりたいしたことないんだよね。

それなのに、3年前に来たことのある同行者は言う。同行者は宮之浦岳より永田岳派だった。永田岳は尖っていて、「山」という漢字の元となる象形文字を思い起こさせる。一方宮之浦岳は滑らかな、丸い印象の山だ。昨日と変わって、天気もあまりよくない。期待せずに宮之浦岳へと出発する。この行程の記憶が、もったいないくらい、ない。気がつくと、頂上だった。

 ね、たいしたことないでしょ。

天気が悪く、永田岳さえ見えない。これでは良いも悪いもない。そうは言っても百名山。三角点の写真を撮ろう。すると何としたことだろう、三角点をカメラに収めた途端、私のデジカメは電池切れになってしまったのだった。永田岳の麓で、夕焼けから夜になっていくその間、自分も夜の中に溶けていくような感覚に陥りながら、シャッターを切り続けた。そしてまた、この世に朝がやって来るその間、朝がやって来るのを全身で感じながら、再びシャッターを切り続けた。西の永田岳、東からちょっと南よりの宮之浦岳。永田岳を眺め、宮之浦岳を眺め、また永田岳を眺める。刻々と移りゆく色に心奪われていた。地球が回り、世界の色が変わっていく間に、電池も刻々と減っていたのだった。なぜか「ぺ」と刻まれた宮之浦岳の三角点が、屋久島最後の一枚となる。永田岳が最高と言う同行者を信じ、電池の全てを永田岳でつぎ込んだことに、私はそれでも満足だった。

さて、宮之浦岳である。なぜ宮之浦岳が百名山で、永田岳が百名山ではないのか。それなのになぜ同行者は、永田岳を素晴らしいと言い、宮之浦岳を評価していないのか。それは深田久弥が屋久島へ遊んだとき、宮之浦岳の日が晴天で、永田岳の日が曇天だったから。それは同行者の宮之浦体験が曇天で、永田岳体験が晴天だったから。私は、晴れた永田岳に一票を投じるだろう。「日本百名山」を読みながら、しみじみと納得したのであった。





永田岳の麓の水場は、すぐには見つからない。地図にはあるが、見当たらない。通常ここは通過地点である。通過地点とする人たちは、ここでの水を諦めて先へ進む。ここでの水を諦める代わりに、次の水場情報が、行く人と来る人の間で交換される。どちらから来てどちらへ行くにしても、5時間先にある小屋までがその日のコースとなる。小屋までたどり着かなければならない人々にとっては、のんびり水を探し回るべき場所ではないのだ。ところが、私たちはここで一晩を過ごすことに決めたのだった。水がなければ始まらない。まずは水である。水はあるはずなのだ。

道の一本下に、道なき道のような、踏み跡があったようだ。同行者が笹の中へ分け入っていく。

その道なき道は、かつては一般的な水場への道だったのかもしれない。下は沼地、しゃがんで笹を掻き分けて進む。藪漕ぎの距離、たかが3m程度か。その距離を進むのに、足は登山靴の紐をしっかり結び、レインウエアはフードまできちんとかぶって挑まなければならない。登山靴を軽くつっかけていたら沼に靴を取られるし、レインウエアで防御しなければ手も顔も瑕だらけだ。

そんな藪をくぐり抜けると。

そこは谷にひらけた川原だった。水が広がる。ある程度水が溜まり、かつ流れのあるところを探す。ひょいひょい水を跨いでいくと、手首くらいまでつかりそうなところがあった。近づいてみると流れもある。ちょうどよく足場もある。ここにしよう。しゃがんで水に触れる。両手で水を掬ってみる。ふと見ると、私の足の隣に、小さなくぼみが二つ並んでいる。鹿の足跡だ。この川原は、ここに暮らす鹿の水場でもあったのだ。鹿はここで水を飲み、水を浴びている。そして、水が流れていてちょっとした溜まりにもなっているちょうどここが、ここに生活基盤のある鹿にとっても、恰好の水飲み場だったのだ。

 ほんの少しの間、ここを貸してください。

ペットボトルで水を汲む。髪をほどき、その水を頭からかける。手拭を水に浸す。見上げると空と山。見渡す限り誰もいない。誰にも見られない。今はその姿を山の中に隠している小鹿たち。山の中からこちらを窺っている彼らを想像する。ここで彼らと共に生きている。そんな幻想に浸りながら、青い空の下、広い川原でただ一人、水浴びをする。

姿なき鹿の水場に清水掬ぶ


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