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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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長くなるが、もう少し、自分の来し方を書きたいと思う。
この前年、2008年5月、叔母の兄、母の兄である叔父が亡くなっている。1年半ぶりの母との再会は、母の兄である叔父の通夜だった。それまでわたしは母を、1年間以上、完全に無視し続けていたのだ。電話どころかメールへの返信も一切せず、完全に拒絶した。母を理解しようとしたり、子として当然持つべき情を持とうという努力を一切やめた。私には、母を恨む必要があった。子どもの頃の小さいわたしが感じていたまま、母を完全なる悪者にした。そうすることで、子どもの頃のわたしを守った。もう大人のわたしでも、母と接すれば、ちょっとしたことで体中に痛みが走った。それは、エネルギーを無駄に消耗する母との確執だった。母を徹底して無視することは、それまでの傷に対しての荒療治だった。母からのメールは、叔父の病状を伝えるものが増えていることには気づいていた。でもわたしは、母へ連絡することができなかった。従姉たちが私とは関係ない家庭を築いているその中へ、叔父を見舞いに行くこともできなかった。変な、屈折した心だった。叔父のことは好きだった。娘3人に対してスキンシップが当然の日常行為だった叔父は、旅先で姪の私をぎゅーぎゅー抱きしめようとした。びっくりしたわたしはベッドと壁の隙間に落っこちた。従姉たちが羨ましいと思った。
実家を避ければ、そこに繋がる縁は、どうしても重くなる。大好きな叔母や叔父、昔は仲が良かったはずがいつの間にか疎遠になってしまった従姉たちに次に会える日が来るとすれば、それは私が幸せになったときだと思っていた。自分の笑顔を見せなければいけないと思っていた。実家を避けながら、親戚に対してはそのようなことを勝手に自分に課していた。そしてきっといつか、そういうときが来るものだと思っていた。母との確執の果ての自分の屈折、そんなもので、生きている叔父に会う機会を永遠に失った。

叔母のことは、もっと好きだった。叔母はわたしを可愛がってくれた。中学生くらいのときに見た叔母の手帳には、2歳か3歳の浴衣を着たわたしの写真が挟まっていた。共働き家庭で祖母と私が二人でいる夕方、うちの近くの病院に車で通勤していた叔母は、毎日のように来てくれていた。母が怖くて母に馴染まない私は、祖母と叔母に愛されて、大好きな祖母と叔母といるこの夕方の時間が一日で一番好きだった。5時になると、叔母が早く来ないかとそわそわしていた。箱を作る宿題を一緒にやってもらったり、算数の解けない問題を根気よく教えてもらったり、従兄がアメリカの大学院へ行ったときは、従兄のところへ遊びに行ったとき向こうで食べたというカリフォルニアロールを作ってくれた。アボガドという食べ物を初めて知った。大人になってからは、叔母に甘えることも相談することもなくなった。会う機会は、あえて避けていた。わたしの屈折は、同棲が破綻して、幸せなわたしではないわたしを見せたくない、というところにあった。一度、社会人2年目の頃、親のお遣いの届け物をしたことがある。駅の改札のこっちから向こうへ袋を渡すだけ。一瞬会っただけのそのとき、叔母がわたしにお年玉を握らせた。もう20歳も超え、お年玉なんてもらう歳ではなかった。辞退するわたしに叔母が言った。将来返してもらうから。投資よ。

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