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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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病院に行くと、叔母はすでに病床の人だった。放射線治療で髪もなく、少し太ったつるつるの顔は赤ちゃんのようで、面影を探すのに時間が止まった。その日はずっと、眠る叔母の手を握っていた。叔母の看病はわたしがしよう。そう心に決めて帰ったはずだった。次に行ったのは次の週で、叔母はベッドの上で落ち着かず、何度も寝返りをうっていた。その叔母の手を必死に握り続けた。この日、あと1週間、の宣告を受けた。その二日後、ハローワークの帰り、夜の用事の前に寄るつもりが、ハローワークが長引き、今日は行けないと母に電話をした。この夜、叔母が急変した。従兄のお嫁さんだけが付いていてくれている時で、毎日看病していた義叔父と母は、不在だった。義叔父は休むために帰り、母はお見舞いに連れて行った91歳の大叔母を送って帰ったところだった。急報にとって返した母から電話が入った。叔母の容態がが急変したから、来れたら来て、と。病院についたとき、看護婦さんが言った。「担当させていただいておりました○○です。」間に合わなかったと知った。帰り、満月が輝いていた。心配していた母は気丈だった。

テントを背負って一人、見覚えのある上高地、明神、徳沢と歩いていく。この日は、初単独テントの山だ。危ないところもないという、比較的楽なコースだという蝶ヶ岳。その割に、景色が大迫力だと聞いた。単独テントデビューとしてちょうどいい、と思った。完璧な晴天だった。徳沢から行ったことのある穂高への道と分かれて長壁という蝶ヶ岳への道を選ぶ。足場も悪くなく、どんどん登っていく。秋の入り口、歩いている気持ちがいい。金曜に叔母が亡くなったばかりで、日曜に通夜、昨日お葬式があったばかりだ。そんな中、わたしは山へ登っている。テントを担いで、どうしても、単独テント泊は今日なのだ。
気付いたら上にいて、どーんとでっかい穂高が目の前に、本当に目の前にある。右から北穂涸沢奥穂前穂。もっと右には槍が岳。景色が雄大で、息を大きく吸って吐く。テントを張ってから最高地点へと空身で走る。山の記述が稚拙だ。自分のことばかり書いて、山でのことを全然書けていない。でも仕方ない。あまり覚えていないのだ。私の脳はこの頃記憶が苦手だったのだ。

ただずっと穂高を見ていた。いくら見ていても、見飽きることがない。あんなすごいところに、私は去年立ったんだ、という感慨も不思議だ。本当に?と笑いたくなる。あれも夢だったのかもしれない。わたしがあそこに立ったことは、今ここで誰も証明できない。朝まだ寒いうちに起き出す。穂高と反対側は、一面雲海だ。太陽はその雲海の向こうから現れる。いつか、一生懸命生きたら、また叔母に会えるんだ。それまでは、一生懸命生きよう。看病はもう充分だからあなたはもう働きなさい、と言われているようだ。こんな晴天も、わたしへの応援歌だ。テントを担いでここまで一人で来たことも、またすぐに夢のようなものになってしまうのかもしれない。でも、それでも、そんな大切な一日が、わたしには確かにあったのだ。
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長くなるが、もう少し、自分の来し方を書きたいと思う。
この前年、2008年5月、叔母の兄、母の兄である叔父が亡くなっている。1年半ぶりの母との再会は、母の兄である叔父の通夜だった。それまでわたしは母を、1年間以上、完全に無視し続けていたのだ。電話どころかメールへの返信も一切せず、完全に拒絶した。母を理解しようとしたり、子として当然持つべき情を持とうという努力を一切やめた。私には、母を恨む必要があった。子どもの頃の小さいわたしが感じていたまま、母を完全なる悪者にした。そうすることで、子どもの頃のわたしを守った。もう大人のわたしでも、母と接すれば、ちょっとしたことで体中に痛みが走った。それは、エネルギーを無駄に消耗する母との確執だった。母を徹底して無視することは、それまでの傷に対しての荒療治だった。母からのメールは、叔父の病状を伝えるものが増えていることには気づいていた。でもわたしは、母へ連絡することができなかった。従姉たちが私とは関係ない家庭を築いているその中へ、叔父を見舞いに行くこともできなかった。変な、屈折した心だった。叔父のことは好きだった。娘3人に対してスキンシップが当然の日常行為だった叔父は、旅先で姪の私をぎゅーぎゅー抱きしめようとした。びっくりしたわたしはベッドと壁の隙間に落っこちた。従姉たちが羨ましいと思った。
実家を避ければ、そこに繋がる縁は、どうしても重くなる。大好きな叔母や叔父、昔は仲が良かったはずがいつの間にか疎遠になってしまった従姉たちに次に会える日が来るとすれば、それは私が幸せになったときだと思っていた。自分の笑顔を見せなければいけないと思っていた。実家を避けながら、親戚に対してはそのようなことを勝手に自分に課していた。そしてきっといつか、そういうときが来るものだと思っていた。母との確執の果ての自分の屈折、そんなもので、生きている叔父に会う機会を永遠に失った。

叔母のことは、もっと好きだった。叔母はわたしを可愛がってくれた。中学生くらいのときに見た叔母の手帳には、2歳か3歳の浴衣を着たわたしの写真が挟まっていた。共働き家庭で祖母と私が二人でいる夕方、うちの近くの病院に車で通勤していた叔母は、毎日のように来てくれていた。母が怖くて母に馴染まない私は、祖母と叔母に愛されて、大好きな祖母と叔母といるこの夕方の時間が一日で一番好きだった。5時になると、叔母が早く来ないかとそわそわしていた。箱を作る宿題を一緒にやってもらったり、算数の解けない問題を根気よく教えてもらったり、従兄がアメリカの大学院へ行ったときは、従兄のところへ遊びに行ったとき向こうで食べたというカリフォルニアロールを作ってくれた。アボガドという食べ物を初めて知った。大人になってからは、叔母に甘えることも相談することもなくなった。会う機会は、あえて避けていた。わたしの屈折は、同棲が破綻して、幸せなわたしではないわたしを見せたくない、というところにあった。一度、社会人2年目の頃、親のお遣いの届け物をしたことがある。駅の改札のこっちから向こうへ袋を渡すだけ。一瞬会っただけのそのとき、叔母がわたしにお年玉を握らせた。もう20歳も超え、お年玉なんてもらう歳ではなかった。辞退するわたしに叔母が言った。将来返してもらうから。投資よ。

叔母の話から始めよう。なぜなら、蝶が岳へ行こう、と決めていた日に叔母が亡くなったから。そして叔母のお葬式の日、お葬式会場から自転車で帰り、そのまま着替えて荷物を担ぎ、上高地行きの夜行で改めて蝶が岳へ向かったから。

叔母が癌だ、と聞いたのは確か6月くらいだった。母からちょくちょく検査だ検査結果だとメールが来るようになっていた。
母から叔母に関するメールが来るようになったこの時期、わたし自身は、脳が飽和状態で、物事を考えることができない状態に陥っていた。ウツではない。周りからはウツに見え、それを否定するのも説明するのも疲れることだった。神経が衰弱していた。神経がピリピリしていて、ちょっとした会話でもどっと疲れ、そんな状態がコントロール不可能だった。寝ても寝ても頭の状態が変わらず、小さな情報の整理もできない、いらない情報が自分の意志と関係なくゴミのように留まっている感じだった。
たとえば、こんなことがあった。朝自転車に乗ろうとしたら、自転車置き場にわたしの自転車がない。「盗まれた?」とまず疑う。疑うしかない状況なのだ。普通に朝起きて、自転車は当然あるはずだから自転車に乗ろうと思ったのだ。ところが、その自転車がない。ふと冷静になって考えてみる。盗まれるという可能性は場所的に低い。ここは治安のよい路地裏のアパートで、わざわざ盗みに来るところではないはずだからだ。そして自分を疑い始める。この頃は、自分の脳を信じてはいけない、と理解していたようだ。ゆっくり状況を把握していくことにする。わたしは自転車にいつ乗ったか?考えてみれば昨日も一昨日も近所のスーパーに行ったくらいだ。確か手に荷物をぶら下げて帰ってきた気がするから、歩いて行ったような気がする。思い出せないが、駅周辺に行ってみれば、スーパーか駅前か、自転車はあるかもしれない。あればきっと思い出す。そう期待して駅へ行ってみる。ところが駅周辺はすでに朝の自転車一斉撤去が終わっていた。自分がどこかに置いたはずの自転車の痕跡も、すでにない。思い出すヒントも見失ったわけだ。がっかりしたがこのことは諦めて、頭を用事に切り替えた。自転車で行くはずだったが、自転車で30分の距離を徒歩に変えた。1時間ほど歩いたところで、はた、と気付いた。自転車保管場へ行ってみればいい。家になくて駅になければ、盗まれた可能性よりは撤去された可能性の方が高く、自転車保管場にある可能性は極めて高く思われた。そこで、そこから1時間かけて保管場まで歩き、自転車を見せてもらった。私の自転車はすぐに見つかった。やっぱり自分の記憶がバッサリ抜け落ちていたのだ。
心療内科で確信犯的に診断書をもらい、傷病手当金をもらって1か月会社を休んだ。前から決めていたことだが、もうどうにも、今の環境から離れて休まないとどうにもならない、というのもあって、7末に退職した。次のことはまだ何も考えられなかった。まずは休むことが必要だった。無職となった8月に両親の小樽観光へ同行した。このときだ。毎晩叔母と電話する母の隣で、父が私に小声で告げた。叔母は相当悪い、と。時間がない、と思った。叔母にはどうしても会わなければいけなかった。

豆粒のやうに灯れり雪の家

新幹線去りゆきて雪ふりつゞく

雪の鳴る音が家路を急ぐ音
冬灯くちびるを受くBarPain

セーターの形になつてゐるわたし

踏んでゆく雪やはらかく手をつなぐ

お布団にくるまれおやすみソングかな

 夜。小屋がひっそりと寝静まった後。逡巡が始まる。

 真っ黒な奥穂を前に一人立っている。
 大きな大きな奥穂の壁に、息が苦しくなる。

 真っ黒な奥穂がわたしに問う。
 わたしは本当に登りたいのか?
 わたしが本当に登りたいのか?
 山が好きなのか?本当に好きなのか?
 一人でテントを担いで来てしまうくらい、好きなのか?
 一人でテントを担いで来てしまう、それは心から望んでいることなのか?
 
 わたしの正直な心はちくりと痛む。
 答えはNO、かもしれない。
 一人では、到底来れなかった。

 わたしは本当に奥穂に登りたいのか?
2年前の思い出が美しいだけなのではないのか?
本当は彼と一緒に登りたいんじゃないか?
あの景色を、もう一度彼と一緒に見たいんじゃないのか?
一人で登ってしまう彼の、わたしは真似をしているだけではないのか?
わたしは山と向き合っているのではなく、
ただ向き合うことができない彼の真似をしてみているのではないか?
山と向き合っているのは、わたしではない。
ただ、彼の真似をしているわたしだ。
彼と一緒に行かなくていいのか?
彼と一緒に行きたいだけじゃないのか?
わたしは山が好きなのか?
わたしは、本当に穂高に登りたいんだろうか?

 こんなわたしは明日、頂上を踏んでいいのだろうか?


朝。
テントの朝は早い。人の起き出す気配で目を覚ます。

日の出をゆっくり見たいから。
静かにテントを片付ける。
お湯を沸かして紅茶を淹れて、テント場の岩に腰掛ける。
紅茶を入れた温かいコッヘルを両手で持つ。
太陽がやってくるのをこうやって待つ。

山での大好きな時間。

空がほんのり明るくなってくる。
まだまだ。
足を揺らして大きくうしろに伸びる。
遠くがオレンジになってくる。
もうちょっと。
紅茶を飲んでゆっくり息をする。

ご来光だ。

朝が来て、明るくなって、完全に今日が来る。
 奥穂からのエネルギーを感じる。
自分の顔が緩むのがわかる。
奥穂に向かってにっこり笑う。
行っていいんだ!
よし!行こう!
今日はちょっと大変だけど、頑張って登って、頑張って無事に下りよう。
 さて、涸沢で一休みして、ではなぜ奥穂小屋まで登ってしまったか。今回は涸沢までかな、と思っていたではないか。少なくとも、一日目は涸沢泊だと思っていたはずだ。山が初めてのMに涸沢を見せたかったし、涸沢まで行けば充分山を見せたことになると思っていた。Mを置いておいて我が身を振り返ってみても、自分の体力は涸沢まででは余りこそすれ、奥穂小屋までテントを担いで一日で行くには全然足りないという認識を持っていた。ではなぜ?勢い、としか言いようがない。涸沢でおでんとラーメンを食べてもまだ1時。荷物は重いが、まだ体力は残っている。荷物の軽いMはここまで軽々とわたしの前を歩いてきた。わたし以上にまだ歩ける。このあとはきついからとわたしが勝手に決めつけて、体力のあるMを昼から涸沢で呑ませていてよいものか。ザイテングラードがどんな道だったか、わたしの記憶はそこだけ欠落していた。前回の記憶では、二日目は確かにしんどかった。かなりヘタレで、2時間半のコースタイムをのろのろと4時間くらいかけた。でもぶつぶつ言いながらも歩いていたらそのうち着いたわけだ。きっとわたしの体力の問題だったのだろう。記憶は曖昧だ。今回は行けるような気がしてきたのだ。着くのは4時ごろになるだろうけれど、天気も崩れそうにない。ここで酒盛りを始めてしまうより、上まで行ってしまおう。
 ザイテンは、記憶以上に厳しいコースだった。涸沢までのハイキングのようなトレッキングとは違う。高度も上げなければいけないし、岩を攀じ登るようなことをしなければならない。背中の重い荷物も、自分の体重と一緒に持ち上げなければいけない。こんな大変な道だったとは。全くよくも来てしまったものだ。同じ世代の人たちで同じ時間に登っている人たちがちらほらいたから、心強かった。一歩一歩登っていれば、暗くなる前に、確実に奥穂小屋には着けるはず。
新宿から夜行バスに乗って、朝5時に沢渡で低公害バスに乗り換え、朝6時には上高地へ入る。ひんやりとした空気が心地よい。
ここへ来る直前、河東碧梧桐が穂高を目指したときの話を読んでいた。碧梧桐は明治6年(1873年)生まれ、日本山岳会創始者小島烏水と同じ年である。ちなみに日本山岳会発足が明治38年(1905年)10月14日で、その翌年明治39年(1906年)8月6日に碧梧桐は三千里の旅をスタートさせた。アルピニストとして有名なのは小島烏水で、とにかくそういう時代の話だ。碧梧桐は猟師を雇って道なき山を目指した。当時は新島々から徳本峠を歩かなければ上高地へは入れない。今もあるルートだが、碧梧桐は言っている。「上高地までなら少し歩けば行けるんだから、もっとみんな行ったらいい。少し歩けば別世界なのだから。」(意訳)
 碧梧桐の助言通り上高地は開発され、今はバスでここまで誰でも来ることができる、美しい観光地となっている。梓川に沿って歩き始め、河童橋を左に見ながら通り過ぎる。さらに歩いて道なりに曲がると明神岳がどーんと見える。この景色は何度見ても圧巻で、本当に息をのむ美しさなのだけれど、初めてのMの感動はひときわで、わたしがその景色に騒がないのが驚きだったようだ。確かにそうだな、と思った。わたしはこんなに美しい中を、別段の関心も持たずに通り過ぎるところだった。そう言われてみて初めて、足を止め、体を横に向け、あらためて顔を上げた。見上げると、梓川の向こうの明神は大きく、そして緑だった。あ、と思った。それは、大きな発見だった。ここは4回目になるけれど、8月に来たのは初めてだった。去年の北穂も蝶も一昨年の奥穂も9月だった。夏の上高地、夏の穂高はすべてがわたしにとって初めての景色だ。緑の明神、緑を映す梓川は、新鮮だった。

 重い荷物を持っていても、横尾までは問題ない。横尾で休んでいると、水を探しに行ったMが嬉しそうに戻ってきた。素敵な橋があった、と。その橋を歩いてみたり、橋からの写真を撮ったりしてきて喜んでいる。今からその橋を渡って行くんだよ、と言うとなーんだ、と言う。梓川を渡るときのこの景色も美しいのだけれど、感動している人をすぐ目の前に見ると、あらためてゆっくりと見ることになる。それはいいことだった。緑の梓川を、右も左も、何度も何度も見て、満足して橋から下りた。重い荷物が重さを主張してくるのは、このあとからだ。
 横尾の先は、今までとちょっと違って、熊笹の中を行く。熊笹に気がいったのは、碧梧桐の穂高を思い出したからだ。碧梧桐は新島々から徳本まで、徳本から上高地まで、そして上高地からも熊笹の中を歩いている。でもそんなことを気にしていられたのは最初のうちだ。大きな木でちょっと暗く、足元も山っぽくなってきて、そして何より登りが始まる。涸沢までは楽チンだ。なぜだか頭はそう覚えているので、ほんの少しの登りでも、驚いてしまう。こんな大変だったっけ。荷物の軽いMにはMのスピードで前を行ってもらう。橋で休憩し、そのあと猿に会ったりしながら、けっこう大儀に歩き、涸沢が見えた!となったらやっとなんとかなるような気がしてきて、それでもうちょっと頑張って、横尾から2時間、やっと涸沢に着いたのだった。
 友人のMに声をかけてみたら、予想外に「行く」というのでわたしの決まらない気持ちが決まった。友人は男性だか、登山経験はほとんどない。それでも富山の人だから、小さいとき白山と、旅人だから海外でのトレッキングと、直前にわたしの仲間内の山行に一回ついてきていた。わたしが行こうかと心を決めかねていたのは、奥穂高岳だった。奥穂にはどうしても行きたいが、奥穂へ行くのには、えいやっ。というエネルギーがいる。二年前には、涸沢のテン場で一泊、穂高岳山荘のテン場で一泊。そして夜明け前に出発して山頂でご来光。去年は涸沢でテントを張り、悩んだ結果、翌日は雨の北穂を選んだ。去年と一昨年で違うこと、それは、去年は一人だったということだ。ほかにも挙げれば理由はあったが、一人で奥穂ルートを取るのは、涸沢まで行っていても、かなり大きなエネルギーがいるということを認識した。奥穂で覚えているのは、山荘の目の前の梯子を登らなければいけないこと、帰り道はかなりしんどかったことである。それでもわたしには、奥穂に行きたい理由があった。去年行けなかったのも、自分では納得ではあっても、やはり心残りのままであった。奥穂の山頂を、もう一度踏みたい。
 さて、初心者のMと行くならば、涸沢までかな、と考える。事前に登山道具もチェックしていないし、今回は念のため二泊できるように月曜有給を取ってはいるが、無理する必要はない。Mを涸沢に残して、単身奥穂をピストンしてくることも考えられる。或いは、涸沢から完全に別行動もありうる。どちらにしても、もし涸沢宿泊となれば彼は小屋泊。仕方がないから、わたしはテントか。大混雑の山小屋で隣同士に寝るのはさすがに気を遣うに違いない。テントを担いだら、やっぱり涸沢まで、というのが妥当だろう。奥穂を諦めるわけではないけれど、可能性の一つにしておこう。涸沢までだって、今年のわたしは、一人だったらやっぱり動けないのだ。涸沢まででも一緒に行ってくれる人がいれば、涸沢まで行こうという気が随分と気楽なものになる。涸沢でやめてしまっても、初めての人に涸沢を見せてあげられる。誰かに声をかけなくても、一杯呑む友人がいる。友人と一杯呑めたなら、涸沢での一泊は、奥穂をあきらめてもお釣りがくる。いくつかの案を用意し、奥穂へ行けない言い訳もいくつか用意して、それで出たとこ勝負だ。

秋雨を告ぐる夜風と語りゐる

三線のしらべ夜霧に溶けやすき

ブナの樹の息も包めり霧の朝

未草の茎長く見ゆ水の秋

大きなる絵の中のやう花野ゆく


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