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流されるままに。 呑んでいればご機嫌。
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2007年4月。残ってしまった青春18切符を使いたい。もう少し若かりし頃、青春18切符を使って乗り継ぎ乗り継ぎ、「地獄谷温泉」へ一緒に行った先輩へ会社からメールを送ってみる。青春18切符なんぞを使った鈍行の旅を嫌いな人もいる。仕事中のはずなのに、即行返信メールが来る。「犬吠はどう?」

JRの切符を使うのが目的だったが、銚子から犬吠までは「銚子電鉄」である。中吊広告が手作り、一両編成で、車掌さんにお金を払って乗り降りする。広告をよく見れば、銚子電鉄で作って売っているいわしやさんまの佃煮。なんとも旅らしい旅気分になってくる。齢30歳のわたしは、旅好きになっていた。

明治39年(1906年)8月20日。上総一の宮から成東まで、徒歩9里、車2里を移動した碧梧桐は、さすがに疲れたようだ。「もう九十九里を拾うてあるく勇気はない」、として、成東から犬吠までを汽車で移動している。そして暁鶏館に宿を取り、犬吠に「一週日の籠城をする心積り」になっている。

暁鶏館。それは明治7年創業の由緒あるホテル。明治31年4月2日に島崎藤村、明治33年3月3日に国木田独歩が投宿している。碧梧桐は明治39年8月20日。大正元年には高村光太郎が妹と来ていた智恵子と再開し、大正8年元旦に若山牧水が訪れている。2009年現在、「当館おすすめのスタンダードプラン」はお一人様一泊二食付き13,650円(消費税込、休前日5,250円増し)とある。

2007年4月。わたしたちの宿は犬吠崎観光ホテル。直前にも関わらず予約が取れて、ラッキーだった。「すべてのお部屋から海がご覧いただけ」るはず。ところがわたしたちが案内された部屋は、予想外に6畳程度の薄暗い部屋であった。従業員用か、布団部屋か。それでも露天風呂を楽しみ、翌朝の日の出に期待をかける。犬吠は、日本で一番早く日の出が見られるのだ。露天風呂でのぼせるほど粘ったが、翌朝は生憎曇り。太陽は雲に覆われたまま昇ってしまった。

犬吠埼の先っぽを気持ちよくお散歩したら、一泊旅行は終了へ向かう。地域みんなで一生懸命盛り上げている銚子電鉄の犬吠駅で、いわしの佃煮とさんまの佃煮を山仲間へ、買い込む。

★銚子電鉄★
1922年10月10日設立
2009年4月現在従業員24名。
横領事件、経営破綻などを経ながらも、少人数で頑張っている。
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上総一の宮に過剰反応して、軽く飛ばしてしまったが、碧梧桐が昼飯を食べた御宿である。

1996年3月。わたしの目的地は、御宿の「ホテルニューハワイ」。ホテルニューハワイ!「月の~砂漠の~」という滝廉太郎の名曲とともに、違う時代へのトリップのような気分である。わたしが行くところは、日本だよね、わたしがいるのは平成、だよね。外房線の中で、何度自分に問いかけただろう。ホテルニューハワイへ行くのは、当時所属していたダンス部の、大学を超えた遊び企画で、他大との交流を目的とした、大合宿が、ここで行われるのであった。御宿に到着すると、冗談ではなく、本当に宿の名前は「ホテルニューハワイ」であった。海さえも見ず、いや、海岸を散歩したような気もするが、宿に籠って遊んでいた記憶しかない。他大の先輩の、試合で結果を出しているような憧れのダンサーの、直接のレッスンを受ける。昼間はごろごろして、夜は呑んだくれる・・・。あぁ、麗しき学生時代。碧梧桐は、「房総の景色を見ようとするには是非とも御宿以南に足を入れねばならぬ」と言っている。足を入れたのに、平成?という驚き意外が記憶から抜け落ちているのが、もったいない。ヤマザキでお菓子を調達したような気もするが、朝夕の食事もつくし、碧梧桐が昼食をとったような食堂が、この地に存在していたんだ、わたしはこの御宿の何も、何一つ見ていなかったんだ、ということが、あらためて感じられる。

こういう旅が目的ではない旅、というのも、若いころにはあったのだ。景色を見るよりも、心に何かを感じるよりも、日常から逃れた考え事をするよりも、自分を取り戻すよりも、ただひたすらその場を楽しむ、先輩の中に入ってどこでもできるような遊びに夢中になるのが一番の、そんなときも、あった。

明治39年(1906年)8月17日。雨。「雨を犯して出発すると、雨はだんだん強くなる。御宿で昼飯を食うて、大原行きの馬車に乗った。」碧梧桐の記録も、たったそれだけである。




2007年12月31日。鎌取にて年越し。大きな焚火を囲み、ちょっと狂ったNew Year's Day。funkyなアメリカ人と、年下の男の子と。

 Mike:Are you a boyfriend & a girlfriend?
 Kiyoshi:I hope so.
 Akiko:Not yet.

2008年1月1日。初星を見上げながら鎌取の駅へ。上総一宮で初日の出、のつもりだったが、もっと海岸に近い駅がある、と聞いた。駅近くのコンビニで地図をチェックすると、東浪見、という駅が九十九里の海岸に一番近そうだ。初日の出は東浪見でつかまえよう、と合意。

明治39年(1906年)8月17日。碧梧桐は雨の中勝浦を出立し、御宿で昼食、大原まで馬車に乗り、そこから一の宮まで汽車の人となる。東浪見辺りは、汽車からの眺めになっている。

2008年1月1日。日の出時刻は6:49。東浪見着6:18。日の出をつかまえる!その一念で、走る。海岸へ向かって。明るくなってきている方向が、きっと海だ。走れ走れ。路地を行き、大きな道を渡ると、田んぼの中になる。松林が見えてきた。海はもうすぐそこだ。松林を抜けると。海!泣きたくなるような、そこは海。ぷかぷか浮かんでいるのはサーファーで、波に乗っていたサーファーたちは、日の出が近づいてくると、そろって沖の方を向き、ぷかぷかと漂っている。太陽は、もうすぐこの世にやってくる。暖流の上にできた雲の間から、強烈な光が洩れる。波がきらきら眩しい。

明治39年(1906年)8月18日。碧梧桐は、歩く歩く。上総一の宮から片貝、東金まで徒歩9里(36km)。「九十九里の砂原は、飢え労れた予には、ゴビの砂漠であった。馬の荷高なのが隊商の駱駝かとも疑われる」。東金から成東鉱泉まで車で2里。

2008年1月1日。東浪見からのローカル電車。あのときわたしの横で爆睡していた人は、わたしを通り過ぎていってしまうのだろうか。旅で出会った、他の人と同じように。
碧梧桐の旅のスタートは、千葉、である。正確には、両国で汽車に乗るところから始まるのだが、やはり千葉から、と言いたい。「せめて千葉まで」と言う仲間ととも千葉まで来て、まどろむひまもない別れの一夜、その一泊を終えて、碧梧桐にとっての旅が始まる。曽我野、八幡、木更津。勝山、那古、館山。洲崎 、千倉。小湊、勝浦、上総一の宮。片貝、成東、犬吠埼。ここまで来て、あまりの面白さに、もう一度千葉から辿りなおす。

地図帳を広げる。鹿野山、鋸山も載っている。「初秋や入鹿も見えて鷗飛ぶ」碧梧桐は仕様もない句を作っている。
しばらく碧梧桐の文章を鑑賞しよう。碧梧桐は、たまに自嘲する。「途中雨に降られて、荷物を五十ばかりの婆さんに負うて貰うたのは我ながら滑稽に類する」(@那古)「真黒に焦げた大勢の中へ交ると、自分の生白い身体が如何にも見すぼらしい」(@勝浦)。
那古では盲目尼が謳う姿を描写し、「煤ぼけた仏像そのままに見える。」と最高の褒め言葉を送る。その老尼が謳う姿から導いた結論は、行基まで遡ってしまう。「行基の遺業は今この尼前にのみ残っておる」。
波太島では、ここでは島主は「仁右衛門」で通っているが、隠居の仁右衛門の顔を「何となく奥行きのあるしっとりとした顔」と評しつつ、島の様子を書いている。当主の仁右衛門の子供に、ぼっちゃま、と言いながら漁師が礼の厚いお辞儀をするところなどを切り取ってみせる。
名刹清澄寺と、歴史の浅い誕生寺を比較し、誕生寺の雅趣を描いているところなどは、子規の文章を思い起こさせる。誕生寺を書いたところの結末は、「この宿屋で風呂に入ると、湯の中に小さな蝦と蟹が浮いておった」。
なかなか味がある目線で、気付くとわたしは、ふっと笑っているのである。

なぜこんなにも惹きつけられるのか。文章もいい。見るところが味がある。それは認めるが、それだけではないことも認めなくてはならない。碧梧桐が歩いている場所、が心に訴えてきている。千葉という場所の力が、小さくない。おそらく多分に、個人的な理由である。千葉、或いは房総に、どっぷり浸かったことは、ない。それでも、この辺りには、小さな、こまごまとした想い出の欠片が、散りばめられている。その欠片と碧梧桐の旅が、シンクロする。ああ、欠片と旅が、シンクロしていく・・・。
今、師が河東碧梧桐の評伝を執筆中である。尾形亀之助、小川芋銭に続く企画である。私も参加している俳句同人誌『ににん』に連載されている。せっかくの機会だから、師を追い、碧梧桐を追い、師とともに『三千里』を辿ろうと思う。

碧梧桐についての予備知識は、ない。昨年、師のゼミで、正岡子規『病壯六尺』を読んだ。関連して、『墨汁一滴』に出会った。子規は病床にありながら、好奇心にあふれ、弟子たちに面白い情報を持ち寄らせていた。その「弟子」の筆頭が、高浜虚子と河東碧梧桐であった。虚子が「ホトトギス」を継ぎ正統俳句の祖となり、碧梧桐は自由句へと袂を分かつ。わたしの師は、碧梧桐びいきである。わたしはと言えば、虚子の句はよくわからない、碧梧桐に至ってはどんな句があるのかもわからない。

なんちゃって山オトコでもある師にとって碧梧桐は単なる俳人ではない。師にとっての碧梧桐は山の先輩、大歩行人なのである。自称「旅人」のわたしも、師にくっついて山に登るようになった。碧梧桐は、きっと面白いに違いない。
一輪で咲けぬ桜のピンク色く
この日わたしが陥った恐怖を、書いておくべきだろう。

布団にもぐりこんでから、脳が妙に動いている。ところが、だからと言って、うまく脳が回っているとは思えない。いっぱい回っているのは確かなようだ。つまり、なんだか、空回りしているようなのだ。何も考えていないのに、頭の中で何かがぐるぐると、すごい勢いで回ってはいる。そう、脳がなぜだか興奮している。けれど、何一つ生み出したり整理したりはしていないのだ。まぁ、落ちているよりはいい。身体も動かず、脳も止まってしまっているような状態が続いていた、それより、脳が動いているほうがいい。そう思っていると、なんだか脈も早くなってきたようだ。脳がむやみに興奮している、その興奮が身体にも伝わっている。心臓がばくばくいっている。これって何なのだろう。アドレナリンが出すぎているのか。アドレナリン放出の目が、詰まっているのか壊れているのか、詰まるときは詰まり、出るとコントロールできずにどっと出る。そんなイメージが浮かぶ。コントロールできないのは、今までの人生でわかっているから、やる気になったときに勢いで、できるところまでやったほうがいい。それにしても、この興奮状態は異常である。取り立てて近い大きな目標があるわけではない、何もないのに、何かができるような大きな気がして、心臓と脳だけが回転を速めている。心臓と脳が異常に回転を速めている・・・?それって。もしかして・・・。死が近い、ということ?死が近いから、生き急いでいる?わたしの意志とは関係ないところで、何かの物質に突き動かされて、脳が、心臓が、異常な動きをしている。何かの物質は、何によって?大きな力、目に見えない力、神さま?死は、やっぱり誰かが決めていることで、運が良ければ事前にそれを感じられる、ということ?それとも、逆に自分身体の中の出来ごと?身体の中で、死が近いということを示す何かしらの信号が出て、それを身体の別の物質が受け取っている?だから、意味もなく、むやみにあせっているのだろうか・・・。わたしはもうすぐ、死ぬのだろうか。。。
会社が休みの日曜日。晴れている。暖かそうだ。起きよう。コーヒーを淹れ、洗濯機を回す。本は何を読もうかな。句の同人誌「ににん」が届いたばかりだ。これにしよう。師が碧梧桐の評伝を書き始めている。連載2回目が掲載されている。なかなか軽くは読めないものだから、これをじっくり読むことにしよう。




突然、最近よくある、悲しさが襲ってきた。なぜ私は一人なのだろう。なぜ、おしまいに、私はしてしまったのだろう。なぜ一緒にいられなかったのだろう、わたしは。彼はわたしを好きなんだと、彼はなんでわからなかったんだろう。彼はわたしを好きなんだと、何でわたしはわからなかったのだろう。なんで今、一緒にいないんだろう。いや、わかっている。彼はわたしを必要としていたし、嫌いじゃなかったのも間違いない。にもかかわらず、一緒にいることができなかった、というのもわかっている。わたしが言い出したおしまいを、彼は選んだんだ。「一緒にいると楽しい。だから一緒にいました。でもこの先ずっと付き合っていこうとは、正直思えません。」それが彼の心だ。今でもきっと話せば楽しく話せる、けれど、そうしたらまた同じような、期待と期待しちゃいけないという抑圧とに挟まれて、しんどくなるのだ・・・。思考がここにはまると、抜け出せない。字なんて読めない。文字を目で追っても、言葉が入ってこない。頭が痛い。頭の後ろが痛い。動けなくなる。何もしたくない。何もしないでやりすごすしかない。横になって、じっとしている他ない。このまま眠ってしまうか。眠い。眠い。眠い。悲しい。泣きたい。抱きしめてほしい。誰かに抱きしめてほしい。抱きしめてくれる腕が、胸が、ほしい。誰がいる?誰がわたしを抱きしめてくれる?そんな腕があったら、それが誰であっても、今の私は拒否できない。壊れてしまう。わたし、壊れちゃう。壊れる前に、眠ろう。眠ってしまおう・・・。




2時間程まどろんで、用事があって外出する。20代前半から75歳までの仲間たちの中で呑む。たくさん笑い、たくさんしゃべる。「わたしウツっぽいんです」「見えないわよ~♪」知的な刺激も受ける。外出先から戻ると、まず、パソコンに向かった。本のレビューを書く。4月に入ってマンガも含めて5冊目。5日にして5冊目。1月18冊、2月8冊、3月10冊。よって、今年の41冊目。この記録に気分が高揚。メールが来ていたのも嬉しく、何通かのメールに返信をする。次に今日の仲間との会話を思い出し、執筆中の氏へ、連載の感想文をメールする。今年は、碧梧桐を、師とともに勉強しよう。師についていこう。そう強く心に決めてお風呂に浸かり、さて寝よう、帰りはほろ酔いで、気持ちよく眠たかったのだ、と思い出して布団にもぐりこむ。ところが。脳が元気に動いている。俳句の同人誌の、次号一句鑑賞。私も係りが回ってきた。だいたい書く内容はできている。よし、書いてしまおう。もう一度パソコンを立ち上げ、一句鑑賞と選句の文章を書き上げる。そうだ、桜を見に、福島へ行こう。彼が学生時代を過ごした福島へ。彼が言っていた、三春の桜。それを見に行こう。電車で行くか、車で行くか。電車を調べると、始発に乗れば、三春駅から最初のバスに乗ることができる。9時には桜に着くから、日帰りも可能だ。いや、でもせっかくだから旅をしたらどうだろう。近くにYHはあるだろうか。福島県に5つある。きれいなYHで行ける距離。路線情報も調べて一つのYHに予約メールを入れる。山も、やっぱり一人で行こう。単独テント、できるだろう。あれもやろう、これもやろう。あれもやりたい、これもやりたい。あれもできる、これもできる・・・。



東野圭吾「変身」

この小説は、事件に巻き込まれ、脳を撃たれた主人公が、犯人の脳を移植され、人格が変わっていく、というストーリーである。主題は、脳移植における倫理の問題だろう。そういう読み方も、愛の可能性という読み方も、サスペンスとしての読み方もできるが、わたしの個人的な関心は違うところにある。

京極瞬介の脳に支配されていく主人公、その過程は、京極瞬介の心の問題を解き明かしていくことと同義である。京極瞬介が、人を殺す衝動を持つようになる生い立ち。そこに「生きる」ことへの哀しさと愛しさを感じる。

人が性格や思考回路を形成するに至るのに、親との関係が、かなり大きく影響すると考える。20代半ばくらいで、理想の人間像や理想の環境と実際の自分との乖離に気付く。その乖離にあがくと、今の自分が形作られた経緯を考えるようになる。そして自分の意志ではどうすることもできなかった子供という時代におかれた環境に辿りつき、過去の環境と葛藤することになる。それを越えると、やっと「自分」という本当の「個」を獲得することができる。それが、私が考える、大人という人間への形成のプロセスだ。京極瞬介はまだ22歳。主人公は精神病院を訪れて、京極瞬介の「エディプス・コンプレックス」を認識したが、京極瞬介本人が、自分の凶暴性とその凶暴性に潜む、自己ではコントロールできない生い立ちの問題に気付いて克服していけば、彼は生きていけたかもしれない。主人公も、子供の頃いじめを受けていた。優しい大人しい人間として成長することで、その傷を押さえ込んできた。新しく獲得した積極性をうまく自覚してコントロールしていければ、主人公もまた、強い自分として、生きていけたかもしれない。

そんなことを思うことができるのは、しかし、個人の場合である。主人公と京極瞬介が、別々の人間として通常通り成長していれば、そのような成長が可能だったのでは、という仮説である。このストーリーでは、「他人の脳」なのである。他人の脳が形成されてきた、他人の過去を追体験していかなければならない。追体験する側の主人公も、される側の脳も、20代前半、である。自分の棚卸で精一杯の年齢で、二つの人生を辿るのは、それだけで充分しんどい。そこに、もう一つの脳が凶暴を志向しているということ、そして元の自分が侵食されていくことを自覚しているということ、という本来のテーマである大問題が加わったのが、この小説である。悲しいエンディングであるが、作者の人間という生き物への温かい視線が感じられる。京極瞬介が「悪」としてだけ認識される社会が、逆に私には恐ろしい。


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